鬼鎮神社。比企郡嵐山町川島の神社

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鬼鎮神社。畠山次郎重忠公菅谷館の鬼門除け守護神

鬼鎮神社の概要

鬼鎮神社は、比企郡嵐山町川島にある神社です。鬼鎮神社は、畠山次郎重忠公が寿永元年(1182)菅谷館を築誠するに当たり、鬼門除けの守護神として奉斎されたと伝えられます。江戸期には村持ちの社として記載され、川島地区の鎮守として祀られていました。戦時中は出征兵士による武運長久祈願が多く、数多くの鉄棒が奉納されたといいます。また、当社の節分祭は著名で、「福は内、鬼は内、悪魔外」と連呼するもので数多くの参詣者で賑います。

鬼鎮神社
鬼鎮神社の概要
社号 鬼鎮神社
祭神 衝立久那止命、八衢比古命、八衢比売命
相殿 -
境内社 -
祭日 節分祭2月3日
住所 比企郡嵐山町川島1898
備考 -



鬼鎮神社の由緒

鬼鎮神社は、畠山次郎重忠公が寿永元年(1182)菅谷館を築誠するに当たり、鬼門除けの守護神として奉斎されたと伝えられます。江戸期には村持ちの社として記載され、川島地区の鎮守として祀られていました。戦時中は出征兵士による武運長久祈願が多く、数多くの鉄棒が奉納されたといいます。また、当社の節分祭は著名で、「福は内、鬼は内、悪魔外」と連呼するもので数多くの参詣者で賑います。

境内掲示による鬼鎮神社の由緒

鬼鎮神社御由緒
埼玉県比企郡嵐山町に、畠山重忠公が御造営された菅谷館(菅谷城)があった。当神社は、その鬼門除けの守護神として、鎌倉時代に沿って建立され、節分祭、勝負の神で有名である。
約八百年前、安徳天皇の御代、寿永元年に創建され、御祭神は、衝立船戸神、八衢比古命、八衢比売命で、主神の、衝立船戸神は、伊邪那岐命が黄泉の国を訪れた後、筑紫日向の橘小門の阿波岐原で、禊祓いをして持っていた杖を投げ出した時、杖より生まれた神である。それが幅広く解釈されて、悪魔祓いの神、家内安全商売繁昌の神、受験の神と、人生の指針を示し、強い力を授ける神として崇められている。
節分祭は、鬼鎮神社において一番大きなお祭りで、この日は何千何万の人が「福は内、鬼は内、悪魔外」と連呼する、日本でここだけの鬼の祭であり、境内は大変な賑わいを見せる。
遠く千年の昔から、勇名を馳せた坂東武者、明治以降の出征兵士の崇敬篤く、戦後は、受験必勝の神様として参拝者は後を絶たず、社頭を賑わしている。
このようなことから「鬼に金棒」と皆から云われている金棒のお守り、祈願成就の赤鬼青鬼の絵馬を授与される方が、非常に多い。(境内掲示より)

新編武蔵風土記稿による鬼鎮神社の由緒

(廣野村)
小名川島
爰は村の飛地にして、東の方太郎丸村を隔てし所を云、
鬼神明神社
村民持、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による鬼鎮神社の由緒

鬼鎮神社<嵐山町川島一八九八(志賀字天沼)>
当社は、市野川右岸に鎮座する。ここは江戸期、広野村の南の方向に当たる飛地で、「川島」と呼ばれた。地理的には、志賀村の中にあった。川島の地は、広野村の村人共有の「秣場」(肥草山)であった。勧請年代は明らかではないが、村の鎮守として祀られた。祭神は、衝立久那止命、八衢比古命、八衢比売命の三柱である。
『風土記稿』には、「鬼神明神社 村民持」と載る。江戸期の神社運営については、「鬼神宮別当に関する訴訟」(『埼玉叢書第六巻』)が詳しく、当社の維持管理を行った村人の状況がうかがえる。
これによると、隣村の水房村の天台宗放光寺が当社の別当であると主張し、年中の神事祭礼並びに毎月の朔望(一日、十五日)二十八日は、天下泰平五穀成就の祈禱を行い、延享年中、安永年中の御改めの時、当社を支配していることを東叡山寛永寺に報告している。また、広野村の村人が近来当社を村持と申して、社殿錠前を所持し、錠番を置くことは不法であると、寺社奉行に訴えている。
これに対し、広野村名主和平次以下五名は、寺社奉行に返答している。当社は、村の株場へ氏神と勧請し、若干の社地を有している。
祭祀においては、正月の松飾りを始め、毎月朔望二十八日の掃仕は村方修験教蔵院が行っている。三月十五日と九月十五日の祭礼には、隣村より神子を頼み湯花神楽を行っている。正五九には地頭の内藤主膳並びに大久保筑前守より祭礼米が下しおかれるので、本村の本山派修験泉学院(氏子の宮本敬彦家)を頼み、武運長久五穀成就の祈禱を行う。もし、社殿修復すべき場合は、その時、泉学院を通じ地頭に頼むことになっている。
更に川島分にある溜井圦樋普請の時は村のために氏子相談の上、地頭に届け、当社境内の立木を用材として伐採した。賽銭は、組頭が預り、社殿やその他の修復に充て、不足分は氏子割合で出銭している。
放光寺は、東叡山寛永寺に別当の書上旧記があるというが、当村役人の加印がなく、これは自己書留である。神楽殿を新たに造営したと報告しているが偽りである。古来の大破した「籠り屋」があるが、これは村で修復した。毎月、朔望二十八日に当社にて祈樟を執行したというが、従来一度も祈禱したことがない。
この度、放光寺並びに水房村役人名主五右衛門以下六名が当村に参り、当村組頭の管理する当社の鍵を渡すべしと強硬に申し立て、渡さなければ社殿の戸前打ち破り、中に押し入ると言った。
当社をめぐる放光寺と村の係争は、この史料を見るかぎり「鬼神宮村持」の主張が通ったのであろう。祈需により参詣者の増加しつつある社に触手を伸ばし、別当になろうとした寺の思惑は、寺社奉行の裁許により退けられたものと思われる。(「埼玉の神社」より)


鬼鎮神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)