小川八宮神社。比企郡小川町小川の神社

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小川八宮神社。埼玉県指定文化財の本殿

小川八宮神社の概要

小川八宮神社は、比企郡小川町小川にある神社です。小川八宮神社の創建年代等は不詳ながら、当初日向山に祀られていたものが、享保2年(1717)当地へ遷座したといわれています。当社本殿は天保4年(1833)に再建されたもので、埼玉県有形文化財に指定されています。

小川八宮神社
小川八宮神社の概要
社号 八宮神社
祭神 正勝吾勝勝速日天忍穂耳命・天之菩卑能命・活津日子根命・多紀理毘賣命・多岐津比賣命・天津日子根命・熊野久須毘命・市来嶋比賣命
相殿 -
境内社 諏訪神社、青麻大神社、御嶽神社、大黒天
祭日 祈年祭2月23日、青麻三灮宮5月3日、諏訪祭9月1日、例大祭10月19日、熊手市12月1日
住所 比企郡小川町小川991
備考 -



小川八宮神社の由緒

小川八宮神社の創建年代等は不詳ながら、当初日向山に祀られていたものが、享保2年(1717)当地へ遷座したといわれています。江戸期には小川村の鎮守として祀られていました。なお、近郊に鎮座する八宮神社は現在「やみや」と呼称しているものの、江戸期には「やきゅう」と呼び「八弓」と書いていたといいます。

境内掲示による小川八宮神社の由緒

旧小川村の総鎮守で、天忍日命ほか七柱を祭神としていることからこの名前がある。創建は不明だが、『新編武蔵風土記稿』に「元和三年(一六一七)再建の棟札あり」とあることから、それ以前と思われる。かつては小川赤十字病院のある日向山あたりにあったが、享保二年(一七一七)この地に移転したと伝えられている。
現在の本殿は切妻銅葺屋根の重厚な作りで、熊谷市妻沼聖天院の棟梁の系譜を引く林兵庫正尊を棟梁として天保四年(一八三三)四月に再建された。本殿三面と破風には龍・唐獅子などを配した中国風俗の彫刻が施され、作者は上州花輪(群馬県)の石原常八である。現在本殿は県の文化財に指定されている。
また、境内には、青麻大神社や諏訪神社などの末社がある。(小川町掲示より)

新編武蔵風土記稿による小川八宮神社の由緒

(小川村)
八宮明神社
村の鎮守なり、祭神は國狭槌尊・豊斟渟尊・泥土煮尊・沙土煮尊・大戸道尊・大戸邊尊・面足尊・惶根尊の八座なりと云、今本地愛染を置り、勧請の年歴は詳ならざれど、元和三年再建の棟札あれば、それより前の鎮座なりしことしらる、
別當休蔵院。本山派修驗、葛飾郡幸手不動院配下なり、愛染山と號す、不動を本尊とす、(新編武蔵風土記稿より)

「小川町の歴史別編民俗編」による小川八宮神社の由緒

八宮神社(小川九九〇)
下小川の八宮神社は、創建の年代は不明であるが、当初は日向山(今の日赤病院付近)に祀られていたものを、享保二年(一七一七)に現在地に移したといわれている。町指定文化財である現在の本殿は、天保四年(一八三三)四月に建立されたもので、周囲には中国の伝説・風俗を題材にした彫刻を配した堂々とした造りである。『新編武蔵風土記稿』は「元和三年再建の棟札あれば、それより前の鎮座なりしことしらる」と記しているが、この棟札は現存しない。
祭神は、氏子の間では「五男三女神の八柱の神」と伝えられているが、その解釈には諸説あり、『神社明細帳』『風土記稿」『比企郡神社誌』でそれぞれ異なる。また、江戸時代には、隣接する愛染山休蔵院という本山派修験の寺院が別当として八宮神社の祭祀を行っていたが、こうした神仏習合の名残で、現在も本殿の内陣には本地仏として愛染明王像が安置されている。
境内には、青麻大神社や諏訪神社などの末社がある。青麻大神社は足の神様としての信仰が厚く、願をかけて足の痛みが治ると草鞋を奉納するのが例で、社殿の格子扉に多くの草鞋がつるしてある。(「小川町の歴史別編民俗編」より)

「埼玉の神社」による小川八宮神社の由緒

八宮神社<小川町小川九九〇(小川字中郷)>
小川町は、外秩父山地の東縁部に位置し、手漉き和紙や板碑に使われる緑泥片岩の産地として知られている。その中心地である大字小川は、江戸時代には、江戸と秩父方面、八王子と上州(現群馬県)方面を結ぶ街道の宿駅として発展し、寛文二年(一六六二)には毎月一・六の日に市も立つようになった。当社は、『風土記稿』小川村の項に「八宮明神社 村の鎮守なり」と記されているように、当時の小川村の鎮守であった。
創建については、『風土記稿』に「勧請の年暦は詳ならざれど、元和三年(一六一七)再建の棟札あれば、それより前の鎮座なりしことしらる」とあるのが、最も詳しい記録である。ただし、この記事に見える「元和三年再建の棟札」は現存していない。また、当社は、元来は地内北部の日向山(愛染山とも称す)に鎮座していたが、享保二年(一七一七)に現社地に遷座したと伝えられる。日向山とは、現在日赤病院がある辺りで、旧社地とされる場所は山林になっており、往時の面影は全く残っていない。この遷座の理由は明らかではないが天保四年(一八三三)に建立された現在の社殿は、日光東照宮全棟の工事を担当した棟梁頭平内大膳守正清の七代目に当たる林兵庫正尊を大棟梁に、上州花輪の彫工石原常八主信を彫物棟梁にして再建された立派で大きなものであることから考えると、境内の拡張が目的であったものかと思われる。ちなみに、当社の本殿は、昭和五十三年に町から有形文化財の指定を受けており、棟札も残っている。
近世の別当は、本山派修験の休蔵院が務めた。休蔵院は、幸手不動院の配下で、愛染山と号し、法印墓地の墓碑銘によれば初代の権大僧都長秀法印は延宝二年(一六七四)に没している。神仏分離後も院主が復飾して千島姓を名乗り、神職として祭祀を継承し、秀儀・秀巳・宮治・幹茂・三郎と務め、一時途絶えた後、縁者の荻野孝一郎が神職を継ぎ、現在に至っている。
当社の祭神は、「五男三女神の八柱の神」と伝えられ、一般に“八宮”の名は八柱の神を祀ることを意味すると説かれる。しかし、「五男三女神」の具体的な神名については諸説あり、『明細帳』では「天照大御神御子五柱・月読尊御子三柱命」、『風土記稿』では「国狭槌尊・豊斟渟尊・埿土煑尊・沙土煑尊・大戸道尊・大戸辺尊・面足尊・惶根尊」、『比企郡神社誌』では「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命・天之菩卑能命・活津日子根命・多紀理毘賣命・多岐津比賣命・天津日子根命・熊野久須毘命・市来嶋比賣命」とされている。また、当社の本地仏は愛染明王で、現在も内陣に安置されている像高三三センチメートルの愛染明王座像については『風土記稿』にも「今本地愛染を置り」との記述がある。内陣には、この座像と共に貞享元年(一六八四)銘の棟札も納められており、その表側には「本地金剛界大日如来」裏側には「奉灌頂愛染明王天長地久国土安全攸」の文字が見える。
八宮神社は、現在、小川町に四社、嵐山町に四社、滑川町に一社と、比企郡に限って存在し、しかもほぼ鎌倉街道上道に沿って集中的に分布している。また、八宮神社の分布している地域の東側には淡洲神社、南側には黒石神社がいずれも集中的に分布しており、この付近は神社の奉斎とその祭祀圏の関係について極めて興味のある地域である。しかし、これらの神社の分布の持つ意味は未だに解明されておらず、八宮神社の分布についても、郷土史家の大塚仲太郎が昭和五年に神社の分布は『和名抄』所載の郷名と関係があり淡洲神社の分布地は醎瀬郷、八宮神社の分布地は多笛郷に比定されるという説を、昭和十三年には八宮神社の分布は奈良梨から下小川に居住する千野氏や諏訪氏といった一族と関係があるという説を『埼玉史談』に発表している程度であり、この二説もまだ定説とは言い難い。
「八宮」の文字は、現在どの神社でも「やみや」と読んでいるが、『風土記稿』にはすべて「ヤキウ」と振り仮名を付しているところから、元来は「やきゅう」と読んでいたことが推定される。このことは、福島東雄の『武蔵志』で、当社の社名が「八弓明神社」となっていることからも裏付けられ、寄居町鷹巣の矢弓神社や東松山市の箭弓稲荷神社との関連も考えられる。なお、「八宮」を「やみや」と読むようになった時期は明治維新直後と推定されるが、読みを変更した理由は定かではない。このように、八宮神社の祭祀については不明な点が多くあり、その解明は今後の研究に期したいところである。(「埼玉の神社」より)


小川八宮神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「小川町の歴史別編民俗編」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)