腰越氷川神社。比企郡小川町腰越の神社

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腰越氷川神社。比企郡小川町腰越の神社

腰越氷川神社の概要

腰越氷川神社は、比企郡小川町腰越にある神社です。腰越氷川神社の創建年代等は不詳ながら、坂上田村麻呂の東征に際し、その家臣が祀ったとも、延暦元年(782)の創建とも伝えられます。江戸期には、腰越の鎮守として祀られ、当社境内地(現社務所)にあった金住院が別当を勤めていました。現在、腰越の中区の鎮守として祀られています。

腰越氷川神社
腰越氷川神社の概要
社号 氷川神社
祭神 建速素盞嗚命・奇稲田比賣命・大那牟遅命
相殿 -
境内社 八坂社、日枝・稲荷・稲荷・疱瘡・合殿、出羽三山、御嶽大神、産泰様
祭日 お九日10月18日、春祭り2月28日、天王様7月15日、秋祭り11月18日
住所 比企郡小川町腰越1382
備考 -



腰越氷川神社の由緒

腰越氷川神社の創建年代等は不詳ながら、坂上田村麻呂の東征に際し、その家臣が祀ったとも、延暦元年(782)の創建とも伝えられます。江戸期には、腰越の鎮守として祀られ、当社境内地(現社務所)にあった金住院が別当を勤めていました。現在、腰越の中区の鎮守として祀られています。

境内掲示による腰越氷川神社の由緒

氷川神社の創立については不詳であるが、祭神には素戔嗚尊、奇稲田比賣命、大那牟遅命がまつられており、腰越の鎮守として「氷川様」と呼ばれている。
古くは、神事として火渡りの行事や例祭十月十八日には、甘酒の振舞いも行なわれていたが今では途絶している。
境内には、子授けや安産祈願にご利益があるといわれている産泰神社があり地元の信仰が厚い。(埼玉県・小川町掲示より)

新編武蔵風土記稿による腰越氷川神社の由緒

(腰越村)
氷川社
村の鎮守なり、
別當金住院
腰越山と號す、本山修驗、入間郡西戸村山本坊の配下なり、不動を本尊とす、(新編武蔵風土記稿より)

「小川町の歴史別編民俗編」による腰越氷川神社の由緒

氷川神社(腰越一三八三)
腰越の氷川神社は、槻川近くの山裾に鎮座しており、腰越中区の人々と腰越上区の一部の人々が氏子となっている。創立の年代は一説に延暦元年(七八二)とされ、本殿内の中宮にも「延暦元年戊戌」の墨書がある。延暦元年の根拠は定かではないが、かつて境内に樹齢一千年と推定される大欅があったことも理由の一つであろう。
『新編武蔵風土記稿」にあるように、江戸時代には、本山派修験の腰越山金住院が別当として神社の祭祀を行っていた。境内の鐘楼はその名残で、天保四年(一八三三)銘の梵鐘を太平洋戦争で供出したため、二代目の梵鐘が昭和五十二年に氏子の浄財によって奉納された。ちなみに、金住院が祭祀を行っていたころ、氷川神社は火防の神として信仰が厚く、戦前は毎年一月に火渡りの行があった。
境内の裏手は天王山と呼ばれる岩山の崖になっているが、その崖下の岩穴には産泰様が祀られており、子宝に恵まれない女性が神体の石棒をなでると御利益があるといわれている。なお、氏子の間では、牛に乗った神像がかつて本殿内に祀ってあったことから、「牛は明神様の乗り物」といい、牛を飼うのが禁忌となっていた。(「小川町の歴史別編民俗編」より)

「埼玉の神社」による腰越氷川神社の由緒

氷川神社<小川町腰越一三八三(腰越字明登)>
小川町の駅からバスで約一〇分、槻川の上流に向かうと、かつて腰越城があった城山の麓に着く。その先に架かる切通橋を渡った所を左折すれば、程なく当社の参道が右手に現れる。境内には、杉や檜が鬱蒼と茂り、社殿は天王山と呼ばれる岩山の切り立った崖に抱かれるように建っている。ただし、現在の社殿は、昭和五十一年に岩山を削って再建されたもので、それまでは鳥居の正面に社殿があった。
祭神は、建速素盞嗚命・奇稲田比賣命・大那牟遅命の三柱で、坂上田村麻呂が東征の際、その家臣が祀ったものとの伝説がある。また、当社の境内には樹齢五百年を超える二股の大杉や樹齢一千年を超える大欅があったことなどから、創建は相当古いといわれている。とりわけ、大欅は周囲が九メートルもある立派なもので、現在社務所になっている辺りにあったが、大正年間に立ち枯れてしまい、更に二股の大杉もその後キティ台風で倒れたため、現在は残念ながら目にすることはできない。
江戸時代には、本山派修験の金住院が別当となり、祭祀を行った。金住院は山号を腰越山といい、当社に隣接していたが、神仏分離によって廃寺となり、院主は笹山姓を名乗って復飾し、昭和十年ごろまで神職を務めた。鐘楼が当社の境内にあるのは、金住院と関係の深かった神仏習合時代の名残である。(「埼玉の神社」より)


腰越氷川神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「小川町の歴史別編民俗編」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)