角山八幡神社。比企郡小川町角山の神社

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角山八幡神社。元弘3年字峰山に勧請、諏訪の杜、五社八幡神社

角山八幡神社の概要

角山八幡神社は、比企郡小川町角山にある神社です。角山八幡神社は、当地に移住してきた粟生田一族が氏神八幡社を元弘3年(1333)字峰山に勧請したと伝えられます。江戸時代の明暦2年(1656)に粟生田・新井・根岸・杉田・岩田の5家がそれぞれの氏神を、当地(新井家の氏神諏訪社地)へ遷して角山村の鎮守とし、社号を八幡社としたといいます。

角山八幡神社
角山八幡神社の概要
社号 八幡神社
祭神 八幡大神、諏訪大明神、大聖歓喜天、稲荷大明神、天満宮
相殿 -
境内社 手長社・八坂社
祭日 夏祭り(天王様)7月26日、例大祭10月19日
住所 比企郡小川町角山277
備考 -



角山八幡神社の由緒

角山八幡神社は、当地に移住してきた粟生田一族が氏神八幡社を元弘3年(1333)字峰山に勧請したと伝えられます。江戸時代の明暦2年(1656)に粟生田・新井・根岸・杉田・岩田の5家がそれぞれの氏神を、当地(新井家の氏神諏訪社地)へ遷して角山村の鎮守とし、社号を八幡社としたといいます。八幡社・天神社・諏訪社・稲荷社・聖天社の合社として奉斎されていることから「五社八幡神社」とも称され、当地は諏訪社が鎮座していたことから諏訪の杜と呼ばれています。また境内は、旧八幡社地の字峯山に向けて配置されていることから北西向きとなっています。

新編武蔵風土記稿による角山八幡神社の由緒

(角山村)
八幡社
村の鎮守なり、別當を宮生山正覺院と云、本山派修驗、男衾郡板井村長命寺の配下なり、本尊不動を安ず、(新編武蔵風土記稿より)

「小川町の歴史別編民俗編」による角山八幡神社の由緒

八幡神社(角山二七七)
角山の八幡神社は、元弘三年(一三三三)に勧請され、元は峰山に祀られていたが、兵火にかかって社殿を焼失したため、明暦二年(一六五六)に現在の境内に移転したという。峰山の元地には、石祀があり、しばらく前までは字峰山の人々が祭りを行っていた。
この八幡神社は、「五社八幡宮」とも呼ばれるが、それは、明暦二年に現在の境内に移転した際、角山の草分けである栗生田・岩田・新井・杉田・根岸の五軒の各氏神である八幡・天神・諏訪・稲荷・聖天の五社を統合して角山全体の鎮守として祀ることになったためで、現在の境内は元来は新井家の諏訪杜があった場所である。
五社の中でも八幡社が中心になった理由は、この社を氏神とする粟生田氏が、角山第一の土豪であり、移転当時は角山坊と号して修験者としても活動を行っていたことにあると思われる。
なお、八幡神社は武術の神として信仰が厚く、昭和二十七年ごろまでは例大祭に流鏑馬が行われていた。また、八幡神社を祀っているためか、角山は武術が盛んな土地で、社殿には「明治辛未」に地元の弓道家が奉納した七個の金的と弓を配した額も掛かっている。(「小川町の歴史別編民俗編」より)

「埼玉の神社」による角山八幡神社の由緒

八幡神社<小川町角山二七七(角山字八幡)>
当社は「五社八幡神社」とも呼ばれ、粟生田・岩田・新井・杉田・根岸の五氏の各氏神である八幡社・天神社・諏訪社・稲荷社・聖天社の合社として奉祀されている。
粟生田氏の祖は、現坂戸市粟生田を本拠として鎌倉幕府に仕えたといわれ、「武蔵七党系図」に見える粟生田五郎行直の同族と考えられる。言い伝えによれば、山伏としてこの地に移住してきた粟生田一族は、元弘三年(一三三三)に字峰山の地に氏神である八幡社を祀り、角山坊と称して活動を行うようになった。現在、粟生田家の墓地には嘉元三年(一三〇五)の板碑のほか、法印知慶と刻む墓石もある。
江戸期に入り明暦二年(一六五六)、粟生田家をはじめ、新井・根岸・杉田・岩田家らが相議り、八幡社・聖天社・稲荷社・天神社を新井家の氏神である諏訪社の社地に移し、角山村の鎮守として崇敬するようになった。その後、角山坊・護国院・正覚院の修験三か寺が別当職を務めるようになったという。ただし、『風土記稿』では「別当を宮生山正覚院と云」とある。(「埼玉の神社」より)


角山八幡神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「小川町の歴史別編民俗編」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)