飯田神社。比企郡小川町飯田の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

飯田神社。旧琴平神社に貴布禰神社・天神社を合祀

飯田神社の概要

飯田神社は、比企郡小川町飯田にある神社です。飯田神社は、琴平神社・貴布禰神社・天神社の三社を大正元年に合併し、琴平神社のあった当地に鎮座、琴平神社の創建年代等は不詳ながら、当地から飯田全体を見渡せる地にあり、崇敬者も多かったことから当地が選ばれたのではないかといいます。飯田では永禄5年(1562)勧請と伝えられる貴布禰神社が古くから村の鎮守として祀られ、長福寺近く(飯田集落センター地)に鎮座、明治27年には石船・津島・天手長男・稲荷・山王社を旧境内に遷座、村社に列格していました。

飯田神社
飯田神社の概要
社号 飯田神社
祭神 琴平神(大物主神・崇徳天皇)、貴布禰神(高龗神)、菅原道真公
相殿 -
境内社 津島神社、石船・天手長男・稲荷合殿、日枝社、火天光社
祭日 十日祭毎月10日、春季大祭4月10日、夏祭り7月15日、秋季例大祭10月19日
住所 比企郡小川町飯田681
備考 -



飯田神社の由緒

飯田神社は、琴平神社・貴布禰神社・天神社の三社を大正元年に合併し、琴平神社のあった当地に鎮座、琴平神社の創建年代等は不詳ながら、当地から飯田全体を見渡せる地にあり、崇敬者も多かったことから当地が選ばれたのではないかといいます。飯田では貴布禰神社が古くから村の鎮守として祀られ、長福寺近く(飯田集落センター地)に鎮座、明治27年には石船・津島・天手長男・稲荷・山王社を旧境内に遷座、村社に列格していました。

新編武蔵風土記稿による飯田神社の由緒

(飯田村)
貴船社
村の鎮守なり、長福寺持、
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不動社
同寺持、
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天神社
大覺院持(新編武蔵風土記稿より)

「小川町の歴史別編民俗編」による飯田神社の由緒

飯田神社(飯田六八一)
飯田神社は、「琴平様」の通称で知られている。それは、かつては別々の場所にあった琴平神社・貴布禰神社・天神社の三社を大正元年十二月十四日に統合し、飯田神社として祀るようになった際、琴平神社の境内であった場所に飯田神社が設けられたためである。
琴平神社は、創建の年代は不詳であるが、古くから現在の境内にあり、出世開運の神として信仰されてきた神杜である。貴布禰神社は字中島(現在の集落農業センター)に祀られており、江戸時代から飯田の鎮守として祀られてきた神社であったことから明治以降は村社となっていた神社である。最後の菅原道真公を祀る天神社は、字打越に祀られていた神社で、学問の神として信仰されてきた。
これら三社を統合して祀る場所として琴平神社の社地が選ばれたのは、一つには琴平神社が小川の町場にも多く崇敬者を持ち著名であったことが上げられ、同時にこの山が飯田の南西端に位置し、大字全体を見渡せる地であったためと思われる。また、末社の石船社は、明治二十七年まで長福寺の裏山に把られていたもので、戦前神体の石船を用いた雨乞いがしばしば行われていた。(「小川町の歴史別編民俗編」より)

「埼玉の神社」による飯田神社の由緒

飯田神社<小川町飯田六八一(飯田字日附田)>
地名からもうかがわれるように、良質の米の産地として近在に知られる飯田は、小川盆地が東秩父山地に出会う山間の地に位置する農業地域である。当社は、その南部にある琴平山の頂に鎮座しており、境内の神楽殿付近からは氏子区域である飯田の集落が一望できる。
元来、飯田の鎮守は、『風土記稿』に記されているように字中島に鎮座する貴布禰神社であった。同社は、永禄五年(一五六二)に勧請されたと伝えられ、明治初年の神仏分離まではその別当であった長福寺の門前に鎮座していた。それを、大正元年十二月十四日に字打越に鎮座する天神社と共に、現社地にあった琴平神社に合祀されたことによって成立したのが当社である。この合祀は、政府の合祀制作に従って行われたものと思われ、現社地が選ばれたのは氏子区域を一望できる地の利からであろう。なお、琴平神社は境内が狭かったため、貴布禰神社を迎えるに当たり、氏子は日役で境内の造成を行ったという。
このように創建された当社は、本来ならば村社である貴布禰神社の社号を継承すべきであったが、三社が合祀によって一体になったことや、一村一社にふさわしい社名をということで飯田神社と称することになった。また、境内には明治二十七年に地内各所から貴布禰神社の境内に集められていた石船・津島・天手長男・稲荷・山王の五社も祀られ、当社同様に信仰を集めている。(「埼玉の神社」より)


飯田神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「小川町の歴史別編民俗編」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)