原川駒形神社。比企郡小川町原川の神社

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原川駒形神社。松山城主上田案独斎の家老原川丹波守が奉斎

原川駒形神社の概要

原川駒形神社は、比企郡小川町原川にある神社です。原川駒形神社は、松山城主上田案独斎に仕えた家老原川丹波守が、天正18年(1590)の松山城落城後に当地に土着、原川丹波守が持参した「袂石」を奉斎、「明細帳」では慶長4年(1599)に再建したといいます。

原川駒形神社
原川駒形神社の概要
社号 駒形神社
祭神 -
相殿 -
境内社 稲荷社、仙元社
祭日 例大祭10月15日、祈年祭4月3日
住所 比企郡小川町原川74
備考 -



原川駒形神社の由緒

原川駒形神社は、松山城主上田案独斎に仕えた家老原川丹波守が、天正18年(1590)の松山城落城後に当地に土着、原川丹波守が持参した「袂石」を奉斎、「明細帳」では慶長4年(1599)に再建したといいます。

新編武蔵風土記稿による原川駒形神社の由緒

(男衾郡竹澤原川村)
駒形社
村の鎮守なり、村持、(新編武蔵風土記稿より)

「小川町の歴史別編民俗編」による原川駒形神社の由緒

駒形神社(原川七四)
原川の駒形神社は、天正十八年(一五九〇)に松山城が陥落した際、城主・上田案独斎に仕えた三人の家老の中の一人、原川丹波守がこの地に落ち延びて隠れ棲んだ際に、祀ったものであるという。
また、境内にある高さ五〇センチメートルほどの「袂石」と称する円柱状の石は、原川丹波守が袂に入れてきたものと伝えられている。
駒形神社では、かつては神体として雌雄の馬の像を祀っていた。雄は栗毛(黒塗り)、雌は青毛(茶塗り)で、いずれも高さは三七センチメートルほどである。この一対の像は、現在は氏子の原川家に保管されているが、それは神仏分離によって神体が鏡に代えられたことにより、馬の像が処分されそうになっていたのを当時の原川家の当主が目に留め、自宅で預かるようにしたためであるという。
言い伝えによれば、この像は左甚五郎の作といい、夜ごと外に出ては作物を食い荒らしたので、昔は鎖につないであったという。
なお、原川家は原川丹波守の子孫であるといわれ、祭礼時に掲揚している「鎮守駒形大明神」の幟も同家が嘉永四年(一八五一)に奉納したもので、かつては幟竿と共に同家に保管されていた。(「小川町の歴史別編民俗編」より)

「埼玉の神社」による原川駒形神社の由緒

駒形神社<小川町原川七四(原川字桜沢)>
当地は、兜川上流の山間地にある。古くは玉川領に属したというが、正保から元禄年間(一六四四-一七〇四)にかけて、竹沢村が六村に分かれた際に原川村として独立した。
これより先、天正十八年(一五九〇)の松山城陥落の際、落武者の一部は大河原村(現東秩父村)に逃れたといわれており、城主上田安独斎朝直の墓も同村内の浄蓮寺に現存する。同寺の過去帳によると、松山城にいた三人の家老の一人、原川丹波守が落ち延びて隠れ住んだのが当地であったという。このころ当社も創建されたと伝わるが、『明細帳』には慶長四年(一五九九)に再建とあることから、当初は恐らく小さな祠であったのであろう。その後、次第に村民の信仰を集め、当村独立の際に村の鎮守として位置づけられたと思われる。境内にある「たもと石」と呼ばれる高さ五〇センチメートルほどの円柱形の石は、丹波守が松山城から落ち延びた時に袂に入れて持ち出したものと言われ、例祭には注連縄を張って祭典を行っている。
参道北側の斜面一角に平地があり、地蔵尊、法印墓石等が建つことから、かつての別当があったことが推察される。丹波守の後裔にあたる原川健家で現在祀られている雌雄の木彫りの馬は、この当時の神体であり、神仏分離により原川家に預けられた。左甚五郎の作と伝え、夜毎作物を食い荒らすので、古くは鎖に繋がれていたという。(「埼玉の神社」より)


原川駒形神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「小川町の歴史別編民俗編」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)