慶徳寺。加田の薬師様、中武蔵七十二薬師
慶徳寺の概要
曹洞宗寺院の慶徳寺は、醫王山薬王院と号します。慶徳寺は、永承元年(1504)に創建、茂林寺第3世の嫩桂祖香を勧請開山として、当寺第2世中孚淳異(天文18年1549年寂)が開山したといいます(禅宗寺院では、僧階の高い僧侶でないと開山できないため)。江戸期には地頭岡部玄蕃守藤原元親(元和2年1616年没)が中興、天明12年(1792)に第19世潮海梵良が当地へ移転して再建したといいます。当寺薬師堂の本尊薬師如来像は、加田の薬師様と呼ばれ、中武蔵七十二薬師72番(結番)となっています。
山号 | 醫王山 |
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院号 | 薬王院 |
寺号 | 慶徳寺 |
本尊 | 釋迦牟尼佛 |
住所 | 比企郡滑川町中尾812 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
慶徳寺の縁起
慶徳寺は、永承元年(1504)に創建、茂林寺第3世の嫩桂祖香を勧請開山として、当寺第2世中孚淳異(天文18年1549年寂)が開山したといいます(禅宗寺院では、僧階の高い僧侶でないと開山できないため)。江戸期には地頭岡部玄蕃守藤原元親(元和2年1616年没)が中興、天明12年(1792)に第19世潮海梵良が当地へ移転して再建したといいます。当寺薬師堂の本尊薬師如来像は、加田の薬師様と呼ばれ、中武蔵七十二薬師72番(結番)となっています。
新編武蔵風土記稿による慶徳寺の縁起
(水房村枝郷中尾村)
慶徳寺
曹洞宗、上野國邑樂郡堀江村茂林寺の末、醫王山と號す、開山中孚淳異は天文十八年十二月五日寂す、後當所の地頭岡部太郎作中興し、元和二年六月四日卒す、本尊彌陀を安ず、
薬師堂
薬師は行基の作、秘佛にして見ることを許さず、小名加田にある故、土俗加田の薬師と稱す、眼病を患るもの来て祈れば驗ありと云、
鐘樓。延享五年時の地頭岡部玄蕃允寄附せる鐘をかけり、云(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉宗教名鑑」による慶徳寺の縁起
慶徳寺
医王山薬王院と号す。
永承元年(1504年)8月の開創であり、当寺第2世中孚淳異が、群馬県館林市茂林寺第3世の嫩桂祖香を勧請して開山とした。
後、当所の地頭岡部玄蕃守藤原元親が中興して、元和2年(1616年)6月4日没した。
寛延元年(1748年)12月11日夜、火災にかかり諸堂ことごとく焼失したが、天明12年(1792年)当山第19世、潮海梵良が再建し当地に移転した。陣屋作り配置をし、沼あり、台地あり、堀があって、本丸にあたるところに本堂を配した。(「埼玉宗教名鑑」より)
慶徳寺所蔵の文化財
- 慶徳寺薬師堂
- 慶徳寺四天王像
薬師堂
薬師堂
字加田(旧加田村)にあるので加田のお薬師様と呼ばれ、眼病に霊験があるといわれている。薬師如来は行基の作と伝えられるが秘仏のため他見を許されない。
薬師は東方薬師瑠璃光如来と称され、十二の大誓願を発して人びとの病苦を救い種々の病疾を治すという如来で、十二神将をたずさえている。十二神将は信者を守り、刻を守る神で軒に十二支が懸けてあるのは興味がある。
この堂はたびたび建替えられ今の建物は元禄十四(一七〇一)年に僧善心により建てられた。法堂の天井は優雅な天女、力強い龍の絵(陰山道益筆)がすばらしい。向拝は格天井で極彩色の花鳥図である。(滑川町観光協会・滑川町教育委員会掲示より)
慶徳寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉宗教名鑑」