吉川香取神社。吉川市吉川の神社
吉川香取神社の概要
吉川香取神社は、吉川市吉川にある神社です。吉川香取神社の創建年代等は不詳ながら、江戸期には香取社と称し、吉川村の鎮守として祀られていました。明治39年の神社整理令により、芳川神社に合祀されましたが、戦後復祀しています。
社号 | 香取神社 |
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祭神 | 経津主命 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷、弁財天、愛宕、水神・八大龍王、都婆岐大神 |
祭日 | 春祭り1月7日、秋祭り11月23日 |
住所 | 吉川市吉川1622 |
備考 | - |
吉川香取神社の由緒
吉川香取神社の創建年代等は不詳ながら、江戸期には香取社と称し、吉川村の鎮守として祀られていました。明治21年に地内の八幡社、天神社を合祀しています。
新編武蔵風土記稿による吉川香取神社の由緒
(吉川村)
香取社
觀喜院持
末社稲荷水神疱瘡合社
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八幡社
本地彌陀を安ず、悉地院持、巳上二社を村の鎮守とす
末社稲荷、愛宕、辨天
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辨天社
川島辨天と號す、古此古利根川の中嶋なりし故此號あり、今地續となりて川縁なり、延命寺持、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による吉川香取神社の由緒
香取神社<吉川町吉川一六二二(吉川字屋敷附)>
当社の鎮座する屋敷附には、江戸期、年貢を収納した倉があり、年貢の輸送は、近くを流れる中川を利用したと伝える。また、中川沿いにある道は、徳川家康が鷹狩りの際、駕籠で来村したことにちなみ賀龍場と名付けられており、『風土記稿』には、権現道と記されている。寛永五年(一六二八)の『東武実録』には、鷹場村として「そうか村、きそね村、つるがそね村、はちちょう」などが見え、家廉が民情視察を兼ね鷹狩りを行ったことを伝えている。このことから、中川流域にあって水鳥の多い当地への家康来村があったと考えられ、その折に当社の参拝も行われたものであろう。
内陣に奉安されている貞享四年(一六八七)の金幣の銘文によると別当が歓喜院であったことが知られ、同院については『風土記稿』に「観喜院本尊 閻魔」とのみ載る。明治初年の神仏分離により同院は廃寺となり、明治三年の「神社御調書上写」によると、住職は復飾し、飯嶋四藤と名乗り神職となった。その後、戸張家が祀職を継ぎ、現在に至っている。なお、歓喜院の本尊は、地内の真言宗延命寺に移されていたが、昭和二十六年の同院の火災により焼失してしまった。また、歓喜院の跡地は、屋号を「エンマドウ」という森田丑太郎家が住居を構えている辺りであるという。
合祀は明治二十一年に地内の八幡社と天神社に対して行っている。(「埼玉の神社」より)
吉川香取神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」