下新田稲荷神社。久兵衛稲荷神社の分霊を勧請
下新田稲荷神社の概要
下新田稲荷神社は、三郷市高州にある神社です。下新田稲荷神社は、下新田村が久兵衛村から分村した元禄年間前後に、久兵衛稲荷神社の分霊を祀ったと考えられるといいます。明治6年村社に列格したものの、久兵衛稲荷神社に合祀、昭和32年復祀したといいます。
社号 | 稲荷神社 |
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祭神 | 倉稲魂命 |
相殿 | - |
境内社 | 御嶽神社、水神宮 |
祭日 | - |
住所 | 三郷市高州1-289 |
備考 | - |
下新田稲荷神社の由緒
下新田稲荷神社は、下新田村が久兵衛村から分村した元禄年間前後に、久兵衛稲荷神社の分霊を祀ったと考えられるといいます。明治6年村社に列格したものの、久兵衛稲荷神社に合祀、昭和32年復祀したといいます。
新編武蔵風土記稿による下新田稲荷神社の由緒
(下新田村)稲荷社
村の鎮守なり、村持(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による下新田稲荷神社の由緒
下新田稲荷神社
当地は、元来、下新田村と呼ばれ、隣接する久兵衛村を開いた久兵衛という者の息子久左衛門が、父親から与えられた土地を開墾したことに始まる之いう。ちなみに、久兵衛村は隣の高須村から分村しており、それ以前は高須久兵衛村と称していた。『風土記稿』に「下新田村は元禄の改に始て高須久兵衛村之内下新田村と載たり」とある。
当社の創建は、右の開発経緯から考えると、新田開発に当たった久左衛門により、耕地の安泰と五穀豊穣を祈り、親村である久兵衛村の鎮守稲荷神社(久兵衛稲荷神社)を分霊して、祀ったものであろう。
安政四年(一八五七)には、吉田家江戸役所から「鎮守正一位稲荷大明神神号」と書かれた神璽を受けている。この時、江戸役所から出された「請取書」には、名主庄太郎、年寄万右衛門の両名から調製料として金四両を受領した旨が記されている。
明治六年に村社となるが、同二十二年の町村合併により、下新田が八木郷村の内になったことから、同四十五年に同村内にある久兵衛の稲荷神社(久兵衛稲荷神社)に合祀された。これにより、旧境内は畑となり、その一画には旧氏子の大山正雄家の屋敷神であった御嶽神社が移築され、鎮守の代わりに祀られるようになった。ところが、その後、旧氏子内に凶事が続いたことから、行者にみてもらったところ、「稲荷様が帰りたがっている」とのお告げが出たため、昭和三十二年に旧地に復した。(「埼玉の神社」より)
下新田稲荷神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」