関新田天神社。吉川市関新田の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

関新田天神社。関村から分村した関新田村の鎮守

関新田天神社の概要

関新田天神社は、吉川市関新田にある神社です。関新田天神社の創建年代等は不詳ながら、元禄年間(1688-1704)以前に関村から分村した関新田村の鎮守として祀られてきたといいます。

関新田天神社
関新田天神社の概要
社号 天神社
祭神 菅原道真公
相殿 -
境内社 稲荷、神明
祭日 お歩射1月24-26日
住所 吉川市関新田1108
備考 -



関新田天神社の由緒

関新田天神社の創建年代等は不詳ながら、元禄年間(1688-1704)以前に関村から分村した関新田村の鎮守として祀られてきたといいます。

新編武蔵風土記稿による関新田天神社の由緒

(関新田村)
天神社
村の鎮守なり、浄慶寺持、
末社稲荷
---
神明社
村民持(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による関新田天神社の由緒

天神社<吉川町関新田一一〇八(関新田字堤通)>
当社の鎮座する辺りの小名を堤通という。この地名は、かつて鎮座地の東側を庄内古川が流れていたことに由来する。隣接の深井新田や平方新田との行き来は、この川を船で行っていたという。また、当社の前を通る道は、古くから野田と流山を結ぶ街道で、境内にある文政六年(一八二三)の猿田彦大神の石塔には「北 今上渡シ野田太子堂 東 三輪野江渡シ流山」と刻まれている。
当地は『風土記稿』に「関新田は、関村より別れしと云、『元禄国図』に始めてこの村名を載たり」と記されていることから、元禄年間(一六八八-一七〇四) には既に一村をなしていたことが知られる。しかし、当社については「村の鎮守なり、浄慶寺持、末社稲荷」と載るだけで、分村に伴って勧請されたものか、あるいはそれ以前から祀られていたものかは不明となっている。往時、当社の管理に当たっていた浄慶寺は、真言宗の寺院で、関村普門寺の末寺であった。この寺は現在、神社から少し離れた所に小さなお堂として残っている。
末社は、稲荷社・神明社・水神宮の三社であるが、『風土記稿』には、稲荷社一社だけが載り、早くから当社の境内社として祀られていたことがわかる。また、神明社は、元は氏子の漆原家の氏神であったが、明治四十二年に当社の境内に移されたものである。水神宮は、天明三年(一七八三)の年紀があり、河川とのかかわりを感じさせる。(「埼玉の神社」より)


関新田天神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」