武輝神社。旧称香取社、もと川藤村小名保村の鎮守
武輝神社の概要
武輝神社は、吉川市川藤にある神社です。武輝神社の創建年代等は不詳ながら、江戸期には香取社と称し、川藤村の小名保村(当地区)の鎮守として祀られていたといいます。明治2年銘の棟札には、社名が「武輝神社」と記載され、幕末に神主鈴木重栄が京都に赴いた際、神祇官から受けたものだといいます。明治45年本川藤の女体社、榎戸の香取社、前新田の稲荷社、後新田の稲荷社、屋形前の天神稲荷合社など11社を合祀しています。
社号 | 武輝神社 |
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祭神 | 経津主命 |
相殿 | - |
境内社 | 高瀧加美大神・闇瀧加美大神、水神宮・八大龍王二社、稲荷、佐貫彦、稲荷 |
祭日 | 例祭2月7日 |
住所 | 吉川市川藤694 |
備考 | - |
武輝神社の由緒
武輝神社の創建年代等は不詳ながら、江戸期には香取社と称し、川藤村の小名保村(当地区)の鎮守として祀られていたといいます。明治2年銘の棟札には、社名が「武輝神社」と記載され、幕末に神主鈴木重栄が京都に赴いた際、神祇官から受けたものだといいます。明治45年本川藤の女体社、榎戸の香取社、前新田の稲荷社、後新田の稲荷社、屋形前の天神稲荷合社など11社を合祀しています。
新編武蔵風土記稿による武輝神社の由緒
(川藤村)
香取社三
一は小名保村の鎮守なり、福壽院持、一は小名榎戸の鎮守なり、本地十一面觀音は鑄像にして弘法の作と云、寶性寺持、一は正清寺持慶安四年彼僧源尊再建す、
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山王社
正清寺持、香取社と同じ頃源尊再造せり、
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女體社
小名本川藤の鎮守なり、東泉寺持何の神たることを詳にせず、
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稲荷社
本地佛は弘法大師の作、寶性寺の持、
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雷電社
福壽院持(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による武輝神社の由緒
武輝神社<吉川町川藤六九四(川藤字保原)>たけてる
当社は中川(古利根川)の乱流によって形成された自然堤防上に鎮座しており、村名の川藤は、川縁の意からきているとされる。
当社は、内陣に祀る香取大明神像からもわかるように元来は香取社と称していた。『風土記稿』川藤村の項に載せている香取社三社のうち、『風土記稿』川藤村の項に載せている香取社三社の「一は小名保村の鎮守なり」と記されているのがそれである。また、同書により真言宗福壽院の管理を受けていたことがわかる。この寺は、明治初年の神仏分離により廃寺となり、本堂はその後しばらく社務所として使用されていたが、明治十五年ごろ他所へ移されてしまったと伝える。
明治二年銘の棟札には、既に当社の社名は「武輝神社」となっている。この社名は、幕末に神主鈴木重栄が京都に赴いた際、神祇官から受けたものであるという。「武輝」の名は、武神である当社祭神の経津主命にちなんだものか、あるいは武蔵国にちなんだものであろう。(「埼玉の神社」より)
武輝神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」