下広島稲荷神社。南広島の開発に際して奉斎
下広島稲荷神社の概要
下広島稲荷神社は、吉川市南広島にある神社です。下広島稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、慶長年間(1596-1615)に広島村が開発されていることから、開発に際して祀られたものと思われます。広島村の下地区一部(中組・西組・会野谷組)の鎮守として祀られ、昭和5年には下地区で祀られていた下組・下谷組の稲荷社を合祀し、下広島地区全体で祀られる社となっています。
社号 | 稲荷神社 |
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祭神 | 倉稲魂命 |
相殿 | - |
境内社 | 天神社、浅間、八大龍王 |
祭日 | 初午祭・百万遍(7月第1日曜)・献穀祭(11月23日) |
住所 | 吉川市南広島2101 |
備考 | - |
下広島稲荷神社の由緒
下広島稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、慶長年間(1596-1615)に広島村が開発されていることから、開発に際して祀られたものと思われます。広島村の下地区一部(中組・西組・会野谷組)の鎮守として祀られ、昭和5年には下地区で祀られていた下組・下谷組の稲荷社を合祀し、下広島地区全体で祀られる社となっています。
新編武蔵風土記稿による下広島稲荷神社の由緒
(廣島村)
稲荷社三
共に村の鎮守なり、一は自性院持、二は地蔵院の持なり、
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第六天社
是も上組の鎮守なり、自性院の持、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による下広島稲荷神社の由緒
稲荷神社<吉川町南広島二一〇一(南広島字下谷)>
当地の開発は慶長年間(一五九六-一六一五)と伝えられている。
地内には「八間落とし」と呼ばれる用水が流れており、この用水より北は上広島、南は下広島と呼ばれている。上下共に鎮守として稲荷神社を祀っており、このうち下広島の鎮守が当社である。
当社の創建の年代は明らかではない。また、『風土記稿』南広島村の項には「稲荷社共に村の鎮守なり、一は自性院持、二は地蔵院持」と記されているが、これらの管理を行っていた自性院と地蔵院の二か寺が既に廃寺となっていることから、この文中に見えるいずれの稲荷社が当社であるか明らかにできない。
もともと、下広島の地内には稲荷社が三社あり、一つは下組、一つは下中組で、一つは中組・西組・会野谷組が共同で祀っていた。当社は、元来は中組・西組・会野谷組が共同で祀っていた社であったが、昭和五年七月に下組と下谷組の稲荷社を合祀したことによって、下広島全体で祀る神社となり、現在に至っている。
なお、一間社流造りの本殿には、狐の背に立って左手に稲穂を持つ稲荷大明神像及び吉田家から受けたと思われる神号の璽筥(うち一体には「海中正一位稲荷大明神」と記される)が納められているが、それらの年紀については記されていない。(「埼玉の神社」より)
下広島稲荷神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」