上広島稲荷神社。南広島の開発に際して奉斎
上広島稲荷神社の概要
上広島稲荷神社は、吉川市南広島にある神社です。上広島稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、慶長年間(1596-1615)に広島村が開発されていることから、開発に際して祀られたものと思われます。広島村の上組の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際して明治6年村社に列格、明治45年枝神社と雷電社を合祀しています。
社号 | 稲荷神社 |
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祭神 | 倉稲魂命 |
相殿 | - |
境内社 | 天神社、水神、大山阿夫利、三峰社、第六天 |
祭日 | 初午の蛇祭り |
住所 | 吉川市南広島812 |
備考 | - |
上広島稲荷神社の由緒
上広島稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、慶長年間(1596-1615)に広島村が開発されていることから、開発に際して祀られたものと思われます。広島村の上組の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際して明治6年村社に列格、明治45年枝神社と雷電社を合祀しています。
新編武蔵風土記稿による上広島稲荷神社の由緒
(廣島村)
稲荷社三
共に村の鎮守なり、一は自性院持、二は地蔵院の持なり、
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第六天社
是も上組の鎮守なり、自性院の持、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による上広島稲荷神社の由緒
稲荷神社<吉川町南広島八一二(南広島字内谷)>
南広島は、中央を流れる八間落としと呼ばれる用水を境に、北は上広島、南は下広島と呼ばれている。上下共に鎮守として稲荷神社を祀っており、このうち上広島の鎮守が当社である。
『風土記稿』によると、村の開発は慶長年間(一五九六-一六一五)と伝え、地内には村の開発と同時期の慶長十七年(一六二一)開基の地蔵院・自性院の二か寺が見える。
また、同書は神社について「稲荷社三共に村の鎮守なり、一は自性院持、二は地蔵院の持なり。第六天社是も上組の鎮守なり、自性院の持」と載せている。この文中に見えるいずれの稲荷社が当社であるかは、往時、各社の管理を行っていたこか寺が既に廃寺となっていることから明らかにできない。ただし、当社の西側に隣接して「寺屋敷」と呼ばれる地があり、元禄二年(一六八九)をはじめとする法印墓石数基が残されていることや、当社近くに『風土記稿』に見える「自性院持」の第六天社があることから、自性院が別当であった可能性がある。
明治初年の神仏分離により寺の管理を離れた当社は、明治六年に村社となり、同四十五年には無格社の日枝神社と雷電社を合祀した。
本殿には、全高二八センチメートルの荼枳尼天像を安置しており、台座裏には天保八年(一八三七)に彩色を行ったことが記されている。(「埼玉の神社」より)
上広島稲荷神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」