常光院。熊谷市上中条にある天台宗寺院

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常光院。天台宗の別格本山、武蔵国十三仏霊場虚空蔵菩薩

常光院の概要

天台宗寺院の常光院は、龍池山廬舎那寺と号します。常光院は、中條出羽守藤次家長が開基となり、祖父常光の菩提を弔うため、比叡山金海法印を迎えて、本人の館を寺として建久3年(1192)創建、慶長9年(1604)には徳川家康より寺領三十石の御朱印状を拝領していたといいます。天台宗の別格本山寺院です。関東ぼけ封じ観音霊場28番、関東百八地蔵尊霊場16番、関東九十一薬師霊場38番、武蔵国十三仏霊場の(虚空蔵菩薩)13番です。

常光院
常光院の概要
山号 龍池山
院号 常光院
寺号 廬舎那寺
本尊 -
住所 熊谷市上中条1160
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 -



常光院の縁起

常光院は、中條出羽守藤次家長が開基となり、祖父常光の菩提を弔うため、比叡山金海法印を迎えて、本人の館を寺として建久3年(1192)創建、慶長9年(1604)には徳川家康より寺領三十石の御朱印状を拝領していたといいます。天台宗の別格本山寺院です。

新編武蔵風土記稿による常光院の縁起

(上中條村)常光院
天台宗、東叡山末、龍池山廬舎那寺と號す、古へは何れに属せし寺なりや、永禄三年より梶井宮の末に属せし由、今も其文書を蔵せり、その文中に寄栖郡龍智山と記せば、後に智を池の文字に改めしならん、寄栖は埼西なるべし、其後東叡山御建立ありて、今の如くなれり、寺領三十石は慶長九年御朱印を附せらる、本尊釋迦の三尊を安す、開山金海開基は中條判官常光といへり、よりて院號とせりと、されど中條のこと卒名も傳へざれば、其事蹟を詳にせず、當寺元は下忍村清水と云所にありて、聖天院と號せしと云、既に天正十八年太閤より與へし禁制の文中に、武蔵國忍の内清水正傳院とあり、この正傳は全く文字を假借して記せしなるべし、其後文禄三年當所に移され、左中将忠吉卿より地を賜はりし時、家臣小笠原三郎左衛門より寺西藤五兵衛・小泉彌三の兩人へ出せし證文に、下忍聖天院と記せり、其後今の院號に改めしなれば、中條判官常光の開基にして、院號もそれによりて銘すと云は疑しきことなり、所蔵の文書左の如し、
武蔵國崎栖郡龍智山之事、可爲當門之末寺旨所定置如件
永禄三年正月三日 天台座主二品親王 花押
武蔵國忍之内清水 正傳院末寺共
禁制
一軍勢甲乙人等濫妨狼藉事、
一放火事、
一對寺家門之輩非分之儀申懸事、
右之條々堅令停止訖、若於違犯之族者、速可被處厳科者也、
天正十八年五月日 御朱印
下忍聖天院屋敷小笠原半右衛門御給之内に出し候、爲其替地於上中條之郷中に、野畑貮町彼御坊之方渡可被申候者也、仍如件
年卯月朔日 小 三左衛門 花押
寺西藤五兵衛殿
小泉彌三殿
山王社、辨天社、稲荷社、千形社、櫻社。
三佛堂。三尊彌陀釋迦を安ず。
鐘楼。天和年中鋳造の鐘なり。
中條判官墓。境内にあり、碑銘あれど事實に益なければ取らず、尤石理も新しく、年代ものせず。(新編武蔵風土記稿より)

常光院栞による常光院の縁起

長承元年(一二ニ二)藤原鎌足十六代目の子孫である判官藤原常光公が、武蔵国司に任ぜられて下向し、当地に公文所を建て、土地の豪族白根氏の娘を要り中僚の地名を姓として土着、館を構えて政務に精励したが、保延三年(一二二七〉五月一日病没された。遺骸は館の東に葬られ近年まで常光塚(権現山古墳)として残っていた。常光公の孫の中條出羽守藤次家長公は、十六歳にて石橋山の合戦には既に頼朝公に直従していて信任が厚く、関東武士では唯一人貞永式目制定に参画し、評定衆(現在の閣僚)として鎌倉に住んだため、自分の中條館を寺とし、五町余歩の土地を維持費として付し、祖父常光公及び殉死した愛童の菩提を弔うため、比叡山から天台の名僧金海法印を迎えて、建久三年(一一九二)開基したのが龍智山盧遮那寺常光院である。爾来法燈連綿として第四十一世を数え、この間徳川家康公は慶長九年朱印三十石、除地二十石、合計五十石の寺領を賜り、文禄三年(一五九四)には忍城主松平忠吉(家康の四男)が成田氏建立の下忍清水の聖天院を廃して常光院へ合併し、聖天院跡地を家臣小笠原半右衛門に屋敷として下賜されたときに、その屋敷の替地として上中條地内の田畑二町歩を常光院へ付せられた。合併の際の聖天院什物の一切が常光院へ搬入され、この中に太閤秀吉の禁制礼等があったために、後の新編武蔵風土記では、聖天院を上中條へ移して常光院としたと誤って記されたものと思われる。このときの聖天院は、常光院第十世住職澄舜法印が兼務していたことに因るかも知れない。
常光院は、開基以来延暦寺直末で天台宗に属し、特に梶井宮門跡(現三千院門跡)の令旨と、その御紋章「梶堅一葉紋」を下腸されて寺紋とし、徳川幕府に至り寺格は十万石、帝鑑定の間乗輿独札の待遇を与えられ、東叡山の伴頭寺とされてきたが、明治維新及び農地解放により五〇〇〇坪の境内地を残して一切を失い、元禄十五年(一六九二)再建の木造平屋建書院造り茅葺き一五〇坪の大本堂、寛文十二年(一六七二)改築の木造平屋根建破風造り瓦葺き十万石格式十八・五坪の大玄関、元禄十五年(一七〇二)書院として建立。明治二十八年前庫裡を除去してその跡地へ改築した現客殿兼庫裡木造二階建瓦葺き六十坪の他、天和三年(一六八三)建立の鐘棲堂、上・下門、書院、茶室など大小十五棟の建物を保有し、この維持管理に窮している。その反面水田地帯の真ん中に古木の平地林、山王社の鳥居は本格的な山王鳥居として関東では珍しく朱塗りが映え、埼玉県指定の「ふるさとの森」の中には全国で初めてという巴蕉翁三百忌を偲ぶ四吉の連句碑、本格的な三十六歌仙句碑など大小の句碑が建ち並び、最近では境内散策の俳句寺として親しまれている。(常光院栞より)


常光院所蔵の文化財

  • 中条氏館跡(埼玉県指定文化財史跡)
  • 天野氏の墓(埼玉県指定文化財史跡)

常光院の周辺図