根岸家長屋門。熊谷市胄山にある旧跡・名所

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根岸家長屋門。甲山村・胄山村の名主家の長屋門

根岸家長屋門の概要

根岸家長屋門は、熊谷市胄山にある名所旧跡です。根岸家長屋門は、甲山村・胄山村の名主を代々勤めた根岸家の長屋門で、桁行24.15m、梁間5.78m、棟高約7.3mあります。江戸後期天保年間(1830-1844)頃の建築と伝えられ、熊谷市有形文化財に指定されています。根岸家は、熊谷次郎直実の末裔と伝えられ、戦国時代には根岸主計定直が松山城主上田氏に仕えていましたが、その後帰農、享保元年(1716)に甲山村の名主となっています。また幕末には根岸友山が私塾「三餘堂」、剣術道場「振武所」を設け、近郷の子弟教育にあたっていた他、二男の根岸武香は、江戸幕府が編纂した「新編武蔵風土記稿」を内務省地理局から刊行させ郷土史家として著名です。

根岸家長屋門
根岸家長屋門の概要
旧跡・名所名 根岸家長屋門
みどころ 県指定史跡
入場時間 -
入場料 -
住所 熊谷市胄山152
備考 -




根岸家長屋門の縁起

根岸家長屋門は、甲山村・胄山村の名主を代々勤めた根岸家の長屋門で、桁行24.15m、梁間5.78m、棟高約7.3mあります。江戸後期天保年間(1830-1844)頃の建築と伝えられ、熊谷市有形文化財に指定されています。根岸家は、熊谷次郎直実の末裔と伝えられ、戦国時代には根岸主計定直が松山城主上田氏に仕えていましたが、その後帰農、享保元年(1716)に甲山村の名主となっています。また幕末には根岸友山が私塾「三餘堂」・剣術道場「振武所」を設け、近郷の子弟教育にあたっていた他、尊王攘夷運動にも積極的に参加、その影響もあってか明治維新後に甲山村は全戸が神葬祭に改め、地蔵堂も祖霊社と改称したといいます。根岸友山の二男の根岸武香は、江戸幕府が編纂した「新編武蔵風土記稿」を内務省地理局から刊行させた郷土史家として著名です。

新編武蔵風土記稿による根岸家長屋門について

(甲山村)
鐘樓
里正伴七が先祖根岸喜太夫と云者、此邊時鐘なきを患て、延享五年六月十六日鑄造せしより、今に二六の時を告と云、
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舊家者伴七
今里正を勤む、先祖は根岸長兵衛とて上田上野介に屬す、天正十八年松山の城に籠りしが、落城の後民間にくだり、寛永四年十月十七日死す、法名洞繁浄雲禅定門胄山村法安寺に碑あり、其子帶刀より相續て、今の伴七に至る、寛永諸家譜に、根岸主計定直上田上野介に仕へ天正十八年松山の城を守り、後召されて旗下の士に列すと載す、されば此先祖長兵衛と定直とは、兄弟にてもありしにや、先祖傳来の物とて太刀・鎖・樵子・鞍・鎧等を今に蔵す(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による根岸家長屋門について

長屋門-構造-
根岸家長屋門の構造は、入母屋造りの瓦葺きで壁材は土壁です。外壁は下部の腰壁部分が板張り、それより上部は漆喰仕上げで、門部分は壁面より後退し、右側に潜り戸と有しています。脇部屋には出格子窓に似た窓が配され、両脇部屋は使用人住居や倉庫、剣術道場として使われました。屋根裏部屋には、与力窓を両脇にそれぞれ二箇所備えています。
長屋門-規模-
長屋門の規模は、桁行24.15m、梁間5.78m、棟高約7.3m、面積約140㎡です。建築年代については、定かではありませんが天保11年(1840)の屋敷絵図にはすでに長屋門が描かれていることから、江戸後期の建築と思われます。(熊谷市教育委員会掲示より)


境内掲示による根岸友山・武香について

根岸友山・武香の功績
根岸家は、中世に活躍した熊谷次郎直実の末裔と言われ、戦国時代には、小田原北条方の、松山城主上田氏に仕え、のちに帰農し甲山村に土着したと伝えられる。
根岸家は、江戸時代中期、享保元年(一七一六)甲山村の名主となり、宝暦四年(一七五四)には胄山村の名主を兼ね、総計八〇町歩以上を所有する豪農となった。
根岸友山は、文化六年(一八〇九)に生まれ、幼名房吉。友山は号である。十六歳で十一代目伴七を襲名するが文武に励み、剣を北辰一刀流千葉周作、学問を芳川波山、林大学に学ぶ。友山は自邸内に私塾「三餘堂」と剣術道場「振武所」を設け、近郷の子弟の就学の機会を与えた。まあ、名主として治水築堤に尽力するが、天保十五年(一八三九)荒川堤修復に際し、農民が川越藩へ訴え出る騒動(蓑負騒動)が起き、友山は農民側に与したため江戸十里四方追放の刑を受ける。赦免後、尊王攘夷に傾倒し、寺門靜軒や安藤野雁らの友人や長州・薩摩藩士との交流を深め、文久三年(一八六三)清河八郎らとともに浪士組に参加し京へ上洛する。その後、一時近藤勇らと行動を共にするが、帰郷し江戸警護の新徴組に加わる。明治新政府になってからは息子武香と共に文化活動に努めた。明治二三年(一八九〇)十二月没す。享年八二歳。大正元年、生前の功績により従五位を追贈される。墓地は県指定旧跡。
根岸武香は、天保十年(一八三九)に友山の二男として生まれる。幼名新吉。剣を千葉周作、学問を寺門靜軒・安藤野雁に学ぶ。明治元年(一八六八)地方大惣代に任ぜられて以降、地方行政に係わり初期学制の確立に尽力した。同十二年(一八七九)の埼玉県議会開設とともに県議会議員に選出され副議長となり、翌年第二代議長となる。同七年(一八九四)には貴族院多額納税者議員となる。一方、考古家として同二〇年(一八八七)東京帝国大学の大学院生坪井正五郎と吉見百穴の発掘を行い、日本の考古学に多大な貢献を果たした。また、考古遺物や古銭、古美術品、古文書等の収集に努め、一般に公開した。更に同十七年(一八八四)江戸幕府が編纂した「新編武蔵風土記稿」を内務省地理局から全八〇冊の刊行を実現した。明治三五年(一九〇二)十二月歿す。享年六四歳。
このように根岸友山・武香父子は、大里町の近世・近代に多大な功績を残した。よって、ここに二人の功績を称え、町の偉人として後世に末永く伝えるものである。(熊谷市、根岸友山・武香顕彰会掲示より)

根岸家長屋門の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」