三ケ尻八幡神社。熊谷市三ケ尻の神社

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三ケ尻八幡神社。鶴岡八幡宮を勧請

三ケ尻八幡神社の概要

三ケ尻八幡神社は、熊谷市三ケ尻にある八幡神社です。三ケ尻八幡神社は、源頼義・義家親子が鎌倉の鶴岡八幡宮の遥拝所として天喜4年(1056)に創建したとも、鶴岡八幡宮の社領となった寿永2年(1183)に創建したともいいます。江戸時代には三ヶ尻村の鎮守となっており、明治5年村社に列格、明治41年字八幡鎮座の神明神社と字中鎮座の天神社(いずれも村社)を合祀、以後村内の多くの社を合祀しています。

三ケ尻八幡神社
三ケ尻八幡神社の概要
社号 八幡神社
祭神 誉田別命
相殿 -
境内社 -
祭日 -
住所 熊谷市三ケ尻2924
備考 -



三ケ尻八幡神社の由緒

三ケ尻八幡神社は、源頼義・義家親子が鎌倉の鶴岡八幡宮の遥拝所として天喜4年(1056)に創建したとも、鶴岡八幡宮の社領となった寿永2年(1183)に創建したともいいます。江戸時代には三ヶ尻村の鎮守となっており、明治5年村社に列格、明治41年字八幡鎮座の神明神社と字中鎮座の天神社(いずれも村社)を合祀、以後村内の多くの社を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による三ケ尻八幡神社の由緒

(三ヶ尻村)八幡社
村の鎮守なり、神職の傳へに當社を、延喜式内田中天神なりといへり、されど證とすべきこともなし、此地は古鶴岡八幡宮の社領にして、殊に文書にも村名の條に載たる如く、寿永二年鶴岡八幡社領となりし地なれば、彼社遥拝のため勧請せしものにて、其頃より鎮座なることは知るべし田中天神のことは延命寺の天神にも云處なれば、何れが正しきを知らず。
神楽殿。
金毘羅社、王子稲荷を合祀せり。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による三ケ尻八幡神社の由緒

八幡神社(熊谷市三ヶ尻二九二四(三ヶ尻字八幡))
昭和五十九年に県から「ふるさとの森」の指定を受けた美しい杜に囲まれて鎮座する当社は、源頼義・義家親子が天喜四年(一〇五六)の奥州征伐の際、この地に本陣を設け、鎌倉の鶴岡八幡宮の遥拝所を建てて戦勝を祈願したことに始まる。当社の社殿が東北を向いているのは、こうした創建の事情によったものであり、隣接する拾六間の地内には義家の設けた陣屋の跡地もある。また、当地は、寿永二年(一一八三)には鶴岡八幡宮の社領となっており、寄進状が現存する。
江戸時代の当社の状況については、『風土記稿』三ヶ尻村の項に次のように記されている。
八幡社 村の鎮守なり、神職の伝へに当社を、延喜式内田中天神なりといへり、されど証とすべきこともなし、此地は古鶴岡八幡宮の所領にして、殊に文書にも村名の条に載せたる如く、寿永二年鶴岡八幡社領となりし地なれば、彼社遥拝のため勧請せしものにて、其頃より鎮座なることは知るべし、田中天神のことは延命寺の天神にも云処なれば、何れが正きを知らず。
この文中に出てくる田中天神とは、『延喜式』に幡羅郡四座の一つとしてその名が見える田中神社のことで、当社、三ヶ尻地内にある田中神社、川本町田中の知形神社の三社が論社とされている。しかし、未だにいずれの社が延喜式内の田中神社なのか、判然としていない。
一方、渡辺崋山が天保三年に著した『訪𤭖録』によれば、当社は、「上野ニアリ、松林蒼欝境頗幽𨗉 廟ノ四周皆彫鏤金碧屋スルニ虻寺茆次ヲ以テス、又前二拝殿一宇ヲ起ス迸リテ舞台ヲ設ク。此廟金毘羅ト王子稲荷ヲ拝祀ス、神主篠田中務(中略)神祭ハ三月八日十五日ナリ、村中集リテ相撲ヲナス。」と記されており、当時の境内の姿や祭りの様子を知ることができる。また、市指定文化財の本殿は明和五年(一七六八)、拝殿は天明二年(一七八二)の建造で、崋山来訪当時の姿を今に伝えている。崋山も特筆している本殿の彫刻は実に壮麗なもので、三ヶ尻出身の名工・内田清八の作である。
明治五年六月に村社となり、同四十一年十一月、字八幡鎮座の神明神社と字中鎮座の天神社(いずれも村社)を合祀する。また、これを機に、村内の各地に散在していた無格社の多くが当社の境内に集められた。大正十二年には東宮殿下御慶事記念として拝殿の改修と社務所の新設とが図られ、いずれも同十四年に竣工している。
本殿内には幣束や神像と共に棟札数枚が保存されており、往時の祭祀状況や神職の名を知ることができる。このほか社務所には寛永六年(一六二九)奉納の五枚の鷹絵額、同三年七月奉納の社号額、安永三年(一七七四)奉納の古風な神鏡などが保存されており、当社の歴史と信仰を知る貴重な史料となっている。(「埼玉の神社」より)


三ケ尻八幡神社所蔵の文化財

  • 八幡神社本殿(熊谷市指定文化財)

三ケ尻八幡神社の周辺図