大我井神社。熊谷市妻沼の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

大我井神社。延喜式内社白髪神社の論社

大我井神社の概要

大我井神社は、熊谷市妻沼にある神社です。大我井神社は、大我井の杜に『延喜式』神名帳に登載された幡羅郡四座の内の一座である白髪神社に比定される論社です。斎藤実盛は大我井の杜と呼ばれていた当地に治承3年(1179)妻沼聖天宮を勧請、その頃には、白髪神社は衰退していたようで、大我井の杜には伊弉諾・伊弉册の二柱が鎮座(妻沼聖天宮縁起)、妻沼聖天宮に二柱は合祀されました。明治維新にあたり、妻沼聖天宮と分離、二柱神社と称したといいます。翌年鎮座地にちなんで、大我井神社と改称、明治初期には、当社境内に浅間大神を勧請、明治40年村社に指定され、妻沼の総鎮守となっています。冨士浅間神社の「火祭り」は県内でも数少ない祭りだそうです。

大我井神社
大我井神社の概要
社号 大我井神社
祭神 伊邪那岐命、伊邪那美命
相殿 -
境内社 富士浅間大神、富士嶽・浅間・浅間・富士嶽・高尾山、駒形神社
祭日 例大祭4月17日、鎮火祭8月
住所 熊谷市妻沼1480
備考 -



大我井神社の由緒

奈良時代に、当地一帯に入植した渡来人は、この大我井の森に『延喜式』神名帳に登載された幡羅郡四座の内の一座である白髪神社を祀ったといい、大我井神社は、その白髪神社に比定される論社です。平安時代に入ると開発が進み、現在の妻沼町とその周辺部を含む長井荘が開発、斎藤実盛は大我井の杜と呼ばれていた当地に治承3年(1179)妻沼聖天宮を勧請、その頃には、白髪神社は衰退していたようで、大我井の杜には伊弉諾・伊弉册の二柱が鎮座(妻沼聖天宮縁起)、妻沼聖天宮に二柱は合祀されました。明治維新にあたり、妻沼聖天宮と分離、往来を挟んで東側に二柱を祀り再興、二柱神社と称したといいます。翌年鎮座地大我井の杜にちなんで、大我井神社と改めています。明治初期には、弥藤吾の扶桑教に属する一山講の講元・長谷美長行らが当社境内に浅間大神を勧請、明治40年村社に指定され、妻沼の総鎮守となっています。

新編武蔵風土記稿による大我井神社の由緒

(妻沼村)
妻沼聖天宮に同じ(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による大我井神社の由緒

武州妻沼郷大我井神社
大我井神社は遠く人皇第十二代景行天皇の御代日本武尊東征の折り、当地に軍糧豊作祈願に二柱の大神、伊邪那岐命、伊邪那美命を祀った由緒深い社です。
古くは聖天宮と合祀され、地域の人々から深い信仰を受けてきた明治維新の神仏分離令により、明治二年、古歌「紅葉ちる大我井の杜の夕たすき又目にかかる山のはもなし」(藤原光俊の歌・神社入口の碑)にも詠まれた現在の地「大我井の杜」に社殿を造営御遷座しました。その後、明治四十年勅令により、村社の指定を受け妻沼村の総鎮守となり、大我井の杜と共に、地域の人々に護持され親しまれています。
なかでも摂社となる冨士浅間神社の「火祭り」は県内でも数少ない祭りで大我井神社の祭典とともに人々の家内安全や五穀豊穣を願う伝統行事として今日まで受け継がれています。(熊谷市観光協会掲示より)

「埼玉の神社」による大我井神社の由緒

大我井神社<妻沼町妻沼一四八〇(妻沼字大我井)>
鎮座地は、利根川右岸に半島状に突き出た自然堤防上にある。周囲は低地で、太古、利根川が乱流した折に大海のようになり、水が引くと大きな沼が二つ残った。古代の人々は、上の沼を男沼、下の沼を女沼と呼び、これらの沼には水の霊が宿ると信じた。このため、この二つの沼を望む自然堤防の突端に社を設け、季節ごとの祭祀を行った。この社とその周辺は、巨木が林立し昼なお暗い森を形成していた。森は、現在の「大我井神社」と「聖天山」の境内地を合わせたほどの広さで大我井の森と呼ばれる神域であった。また、ここは後に藤原光俊により「紅葉ちるおおがいの杜のゆうだすき又めにかかる山の端もなし」と詠われた。
奈良期、当地一帯に入植した渡来人は、この大我井の森に白髪神社を祀った。白髪神社は、『延喜式』神名帳に登載された幡羅郡四座の内の一座である。
平安後期、利根川右岸は開発が進み、現在の妻沼町とその周辺部を含む長井荘が誕生した。長井荘の荘司である斎藤氏がこの地を得たのは、前九年の役(一〇五一)で戦功のあった実遠からで、以後、実直・実盛と三代にわたり勢威を振るった。殊に実直の養子に入った斎藤則盛の子である実盛は信仰厚い武将で、治承三年(一一七九)に日ごろから守護神として身近に置いた大聖歓喜天を祀る聖天社を大我井の森に建立した。実盛の生国である越前国は早くから空海の巡錫により聖天信仰が及んでおり、幼少のころからこの影響を受けていたのであろう。以後、聖天社は長井荘司の信仰する氏神として荘民からも崇敬を受け、次第に長井荘の総鎮守として発展していった。この時期、白髪神社の信仰は既に衰退し、かろうじて社名のみ残す社となっていた。
実盛は治承四年(一一八〇)の頼朝挙兵後は平家方につき、寿永二年(一一八二)に加賀国篠原で木曾義仲との戦いで討死した。実盛の死後、斎藤家は源氏かも追われ、長井荘司に就くことはなかった。実盛の次男実長は僧籍に入って良応と名乗り、建久八年(一一九七)に頼朝の許しを得て別当歓喜院長楽寺を建立し、聖天社の祭祀受び一族の供養を行った。また、この年、実盛の孫である実家・実幹の名をもって御正躰錫杖頭が奉納された。
その後、聖天社は幾多の変遷を経て室町後期、成田郷を本貫とし、忍城主となった成田氏の保護を受けた。これは妻沼の地が成田氏所領の内の騎西領に属し、庶民の崇敬を集めていたからである。棟札によると、天文二十一年(一五五二)、成田長泰は、別当歓喜院の聖天堂を造営し、その際の大檀那は「長泰老母」と記されている。長泰は母が実盛の後裔に当たる斎藤実治の娘であったことから、母方の一族にゆかりある聖天堂を造営することで孝養を尽くしたのであろう。
天正十八年(一五九〇)小田原の北条氏に与力した成田氏の居城である忍城は、豊臣旗下の石田三成に攻撃され落城した。このため、聖天社は成田氏の保護から離れ、代わって関東に移封となった徳川氏の支配に組み込まれた。慶長九年(市六〇四)に家康は社殿を造営するとともに五〇石の朱印地を寄進した。江戸中期の社領運営は、別当歓喜院・社僧宝蔵院・花蔵院・宝寿院・西方院・東蔵院・仲道坊・玉蔵坊・宝篋堂・社守修験三名・禰宜四名で行われていた。
慶応四年(一八六八)から全国諸社に神仏混淆を禁じるため、神仏分離令が布達された。聖天社禰宜は、このような時流に乗じ、別当・社僧・社守修験を廃し、純然たる神社として祭祀を行うことを主張し、歓喜院と係争に及んだ。しかし、由緒ある聖天社の運営について長く係争することは崇敬者のためにも良しとせず、別当・禰宜・村役人立会いのもと明治元年十二月、和解が成立した。「議定書」によると、聖天社境内のうち妻沼宿並びに往来の東側に新たに分離独立した伊弊諾命・伊弉冉命を祀る二柱神社を再興し、禰宜はこの社の祭祀に専念すること、聖天社そのものは「聖天山」と改称し、以後寺院として歓喜院が運営すること。社僧はこれに属すること、従来の崇敬区域である妻沼村ほか二八か村は、二柱神社の氏子並びに聖天山の、氷代講中とすること、とある。
聖天社から分離独立した二柱神社は、明治二年、社名を古代から神々の坐す大我井の森にちなみ、大我井神社と改称し、社殿が造営された。(「埼玉の神社」より)


大我井神社の周辺図