赤城久伊豆神社。熊谷市石原の神社

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赤城久伊豆神社。熊谷七福神の福禄寿

赤城久伊豆神社の概要

赤城久伊豆神社は、熊谷市石原にある神社です。赤赤城久伊豆神社は、忍城主となった成田氏が用水堀(成田用水)を開削し、その源に当たる荒川の水門に久伊豆神社を勧請したものの、境内地が浸食されるようになったことから赤城神社に合祀、赤城久伊豆神社となったといいます。明治42年、大字石原字坪井の伊奈利社・諏訪社・琴平社・白山社・字植木・字正天・字宿の各伊奈利社、字天神の天神社・字天神前の神明社、字町の八坂社を合祀しています。熊谷七福神の福禄寿です。

赤城久伊豆神社
赤城久伊豆神社の概要
社号 赤城久伊豆神社
祭神 豊城入彦命、大己貴命、大山祇命
相殿 -
境内社 稲荷社など
祭日 -
住所 熊谷市石原1007
備考 -



赤城久伊豆神社の由緒

赤城久伊豆神社は、忍城主となった成田氏が用水堀(成田用水)を開削し、その源に当たる荒川の水門に久伊豆神社を勧請したものの、境内地が浸食されるようになったことから赤城神社に合祀、赤城久伊豆神社となったといいます。明治42年、大字石原字坪井の伊奈利社・諏訪社・琴平社・白山社・字植木・字正天・字宿の各伊奈利社、字天神の天神社・字天神前の神明社、字町の八坂社を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による赤城久伊豆神社の由緒

(石原村)
赤城久伊豆合社。赤城明神は村内の鎮守とす。
稲荷社
聖天社。以上三社真宗寺持
天神社
伊勢宮
諏訪社。以上東漸寺持(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による赤城久伊豆神社の由緒

赤城久伊豆神社(熊谷市石原一〇〇七(石原字宿))
鎮座地は、荒川の左岸から約三〇〇メートルの所にある。当地の地名、石原は、石の目立つ荒川河岸にあったことに由来する。
『風土記稿』には「赤城久伊豆合社 赤城明神は村内の鎮守とす」と載る。これは戦国末期、古くから当地の鎮守であった赤城神社に久伊豆神社が合祀され一社となったことを示している。
赤城久伊豆合社のうち、赤城神社は、当地の人々が信仰の対象として仰ぐ群馬県宮城村に鎮座する赤城神社を権請したものである。このため、当社境内北側の鳥居は、赤城山に向けて建てられており、赤城山以外の方角に鳥居を建てると必ず倒れるという言い伝えがある。また、近年、東側の参道が整備されるまでは、この鳥居のある所が正参道であった。当地の農民は、古くから赤城山を望んで、神霊の宿る山として信仰し、これを拝してきたものであろう。
一方、久伊豆神社は、戦国末期、忍領・妻沼領・騎西領・本庄領などを支配する豪族、成田氏の崇敬する神社であった。成田氏が久伊豆神社を崇敬するようになったのは、恐らく本貫である幡羅郡成田郷の惣鎮守が久伊豆神社(現上之村神社)であったことから、領主である同氏は、民政の安定を図るため、郷民の信仰する久伊豆神社を保護するとともに、自らもこの神社を崇敬するようになった。
社伝によると、久伊豆神社が赤城神社に合祀された経緯は、忍城主となった成田氏が自らの城の防備と領内の灌漑のため、用水堀(成田用水)を開削し、その源に当たる荒川の水門に久伊豆神社を勧請したが、後に荒川の流路が変わり、境内地が浸食されるようになったので、やむなく赤城神社に合祀されることになったという。
合祀後、当社を赤城様と呼ばずに「おひさえでんさま」(久伊豆様)と呼ぶのは、城主崇敬の神であったことから、特に神威を感じたものであろう。
本殿は、二間社流造りで、向かって右側に「正一位赤城明神」の幣帛、左側に「正一位久伊豆明神」の幣帛が納められている。これらの幣帛は、正徳五年(一七一五)九月二十六日、神祇管領吉田兼敬から献じられたものである。
別当は、京都の真言宗智積院末の羽黒山不動院真宗寺である。
明治期に入ると、神仏分離により真宗寺から離れ、代わって当山派修験大聖院の大塚伊織が復飾して神職となり、以後、斎藤真澄・里見義延・斎藤宇一・岩井耕作・相馬薫と当社の祭祀を行っている。
明治四十二年、大字石原字坪井の伊奈利社・諏訪社・琴平社・白山社・字植木・字正天・字宿の各伊奈利社、字天神の天神社・字天神前の神明社、字町の八坂社の計一〇社が当社に合祀された。(「埼玉の神社」より)


赤城久伊豆神社の周辺図