樋春七社神社。熊谷市樋春の神社

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樋春七社神社。旧樋口村と旧春野原村の鎮守

樋春七社神社の概要

樋春七社神社は、熊谷市樋春にある七社神社です。樋春七社神社の創建年代等は不詳ながら、鎌倉期には「春原荘」と呼ばれる荘園が設置されていたころから、古くから祀られてきたのではないかといいます。戦国時代には、深谷城落城後に新井豊後守が土着、永禄年間(1558-1750)に本殿が造営されたとも伝えられます。万治3年(1660)に当地一帯は樋口村と春野原村に分村、当社は樋口村では七社明神社と称され、春野原村では春日社と称され、一殿に二社が祀られてそれぞれの鎮守とされていました。明治維新後に樋口村と春野原村とは再び合併して大字樋春となり、樋春の鎮守として明治4年村社に列格、明治42年稲荷社2社を合祀しています。

樋春七社神社
樋春七社神社の概要
社号 七社神社
祭神 大日孁貴命、誉田別命、別雷命、大山祇命、大斗辺命(大山祇命)、倉稲魂命、天兒屋根命
相殿 -
境内社 手長神社、稲荷神社、坂田稲荷社・持木稲荷社・実朝社合殿、不動・御嶽など
祭日 春祭り、秋祭り
住所 熊谷市樋春1023-1
備考 -



樋春七社神社の由緒

樋春七社神社の創建年代等は不詳ながら、鎌倉期には「春原荘」と呼ばれる荘園が設置されていたころから、古くから祀られてきたのではないかといいます。戦国時代には、深谷城落城後に新井豊後守が土着、永禄年間(1558-1750)に本殿が造営されたとも伝えられます。万治3年(1660)に当地一帯は樋口村と春野原村に分村、当社は樋口村では七社明神社と称され、春野原村では春日社と称され、一殿に二社が祀られてそれぞれの鎮守とされていました。明治維新後に樋口村と春野原村とは再び合併して大字樋春となり、樋春の鎮守として明治4年村社に列格、明治42年稲荷社2社を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による樋春七社神社の由緒

(樋口村)
七社明神社
當村及び春野原村の鎮守なり、押切村八幡神主篠田周防持、
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(春野原村)
春日社
當村及び樋口村の鎮守なり
(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による樋春七社神社の由緒

七社神社<江南町樋春一〇二三(樋春字宮裏)>
山崎は、荒川の堤防沿いに位置し、用水の取り入れ口の意から古くは樋口村と称した。万治三年(一六六〇)に村の南部の春野原を分村し、明治五年に至り、樋口村の「樋」と春野原村の「春」とを組み合わせて樋春村と命名した。
春野原は鎌倉期から戦国期に見える荘園名「春原荘」の遺名であること、地内の平山家の先祖、新井豊後守は深谷城主上杉左兵衛憲盛に属して当所に住し、深谷落城後当地に土着したと伝えることから、中世末期には既にこの辺りの開拓が行われていたことがわかる。ちなみに、当社の本殿造営が永禄年間(一五五八-七〇)に行われたとの伝えがあり、平山家とのかかわりが考えられる。
『風土記稿』樋口村の項には「七社明神社 当村及び春野原村の鎮守なり、押切村八幡神主篠田周防持」とある。一方、春野原村の項には「春日社及び樋口村の鎮守なり」「真光寺持」とある。両者の記述は七社明神社と春日社が別々に記られているように受け取れるが、実際は古くから一殿に二社が祀られていた模様で、「神社明細書」には、両村の入会地に「七社神社・春日神社」が両村鎮守として鎮座し、樋口村では七社神社と呼び、春野原村では春日神社と呼ぶとある。このような形になったのは春野原村分村以降のことであろう。(「埼玉の神社」より)


樋春七社神社の周辺図