越巻稲荷神社。旧越巻村字中新田・字雨足で崇敬
越巻稲荷神社の概要
越巻稲荷神社は、越谷市新川町にある稲荷神社です。越巻稲荷神社は、元和元年(1615)に創建、越巻村にあった稲荷二社のうちの一社で越巻村字中新田と字雨足の人々に崇敬されてきたといいます。
社号 | 稲荷神社 |
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祭神 | 倉稲魂命 |
合祀 | - |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 越谷市新川町2-66 |
備考 | - |
越巻稲荷神社の由緒
越巻稲荷神社は、元和元年(1615)に創建、越巻村にあった稲荷二社のうちの一社で越巻村字中新田と字雨足の人々に崇敬されてきたといいます。
新編武蔵風土記稿による越巻稲荷神社の由緒
(七左衛門村枝郷越巻村)稲荷社二宇
一は鎮守にて慶長十七年、一は元和元年勧請すといふ、共に満蔵院持
天神、辨天。共に鎮守の末社とす。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による越巻稲荷神社の由緒
稲荷神社(新川町2-66越巻字屋敷裏)
『風土記稿』越巻村の項には『稲荷社二宇一は鎮守にて慶長十七年(一六一二)、一は元和元年(一六一五)勧請すといふ、共に満蔵院持」とある。当社は、そのうちの後者の稲荷社で、明治初年の社格制定に際しては無格社とされた。また、口碑に、当社は島村一家の氏神として創建されたものといわれ、今も当社周辺は島村家の所有地である。祭神は倉稲魂命で、「明観照」という通称は、七左衛門村観照院(満蔵院の本寺)から分かれた神社であるためといわれている。
本殿は、一問社流造りで、本殿には高さ三六センチメートル、直径二四センチメートルの木製の神鏡がある。この神鏡には、梵字と共に「正一位稲荷大明神 奉遷宮導師法印果観 弘化丙午(一八四六)四月廿八日 別当満蔵院 世話人 名主平左衛門 伊助」の墨書がある。ちなみに、満蔵院は、今でも新川町一丁目にある真言宗の寺院で、七左衛門村の観照院の末寺であるが、無住になって久しい。
かつて当地では蓮の栽培が盛んで、米より多く作っていた。当社の周囲も一面の蓮田であったが、境内の南側には神田があり、当番になった班がそこで米を作り、祭典の費用としていた。ところが、老人福祉センター「白寿亭」の建設に伴い、神田はその用地として昭和六十年ごろ買収された。そのため、当社周辺の景観は大きく変わり、今では県立健康福祉村の公園の中の一部のようになっている。(「埼玉の神社」より)
越巻稲荷神社所蔵の文化財
- 越巻中新田の産社祭礼帳(越谷市指定有形文化財)
越巻中新田の産社祭礼帳
本史料は越谷町新川町二丁目の越巻中新田に伝わる、「産社祭礼帳」である。越巻村は「新編武蔵風土記稿」によると、武蔵国埼玉郡越谷領に属し、文政七年(一八二四)の調査では中新田と丸の内の二集落からなり、戸数は三十六軒とある。
越巻村では江戸時代前期の承応三年(一六八五)に産土社を勧請して以来、現在まで書継がれてきた三冊の綴帳が今なお「産社祭礼帳」と題されて年番の家に持ち回りで所蔵されている。
はじめのうちは祭礼の期日・経費分担・当番者の名前のみが連記されていつが、享保期(一七一六〜三五)以降は、年内に発生した顕著な出来事が豊富に収録されてくる。たとえば災害関係・年貢関係・信仰関係・助郷関係・各種の事件簿、である。
そしてこの記録は、すべて農民の生活に直接密着した事柄であるだけに、当時における農民の意識やこの地域の歴史を知るうえで貴重な史料となっている。(越谷市教育委員会掲示より)
越巻稲荷神社の周辺図