恩間香取神社。下総国一宮香取神社を勧請
恩間香取神社の概要
恩間香取神社は、越谷市恩間にある香取神社です。恩間香取神社の創建年代等は不詳ながら、当地は古くから開発が進んでいたことや、当地が中世には下総国に属していたことから、下総国一宮香取神社を勧請したのではないかといいます。江戸期には村の鎮守社として祀られ、明治6年村社に列格、明治40年に字天神下の無格社菅原神社を当社境内に移しています。
社号 | 香取神社 |
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祭神 | 経津主命 |
相殿 | - |
境内社 | 天神社、古峰、阿夫利神社榛名神社、三峰、子ノ権現、猿田彦大神 |
祭日 | 夏越祓7月5日、例祭7月18日 |
住所 | 越谷市恩間311 |
備考 | 旧恩間村鎮守 |
恩間香取神社の由緒
恩間香取神社の創建年代等は不詳ながら、当地は古くから開発が進んでいたことや、当地が中世には下総国に属していたことから、下総国一宮香取神社を勧請したのではないかといいます。江戸期には村の鎮守社として祀られ、明治6年村社に列格、明治40年に字天神下の無格社菅原神社を当社境内に移しています。
新編武蔵風土記稿による恩間香取神社の由緒
(忍間村)
香取社
村の鎮守とす、等覺院の持、
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天神社
延命院の持、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による恩間香取神社の由緒
香取神社<越谷市恩間七七二(恩間字中道)>
恩間の地名は本来忍間と記され、旧荒川押し回し(曲流)の意味であるといわれ、金沢文庫所蔵の嘉暦元年(一三二六)十月三日の『下河辺庄新方検見帳』に見える「おまの分」を当地のこととする説もあるように、古くから開発が進んでいた所である。当社は、この忍間村の鎮守として祀られてきた神社であり、この辺りは中世には下総国(現千葉県)に属していたために、下総国一宮香取神社を勧請したものと思われる。
また、代々当地の名主を務めてきた渡辺家は、酒呑童子を退治したことで知られる源頼光の四天王の一人、渡辺綱の後裔と伝えられ、同家にその家譜が残っている。この忍間の草分けである同家は、当社の創建にも大きくかかわっていると思われ、嘉永六年(一八五三)の社殿造営の棟札にも氏子四八名の筆頭に「渡邊嘉兵衛」の名が見える。
一方、『風土記稿』忍間村の項に「香取社 村の鎮守とす、等覚院の持」とあるように、江戸時代の当社は真言宗の等覚院の管理下にあった。当社の本殿に十一面観音立像が安置されているのは、こうした神仏習合のころの名残で、仏像の裏面には、享保七年(一七二二)に等覚院僧侶の権大僧都法印宥長が当社に奉安するためにこれを求めた旨が記されている。しかし、神仏分離によって等覚院は廃寺になり、現在は当社の裏に「寺屋敷」の地名を残すだけである。(「埼玉の神社」より)
恩間香取神社の周辺図