北越谷稲荷神社。旧大房村の鎮守
北越谷稲荷神社の概要
北越谷稲荷神社は、越谷市北越谷にある稲荷神社です。北越谷稲荷神社は、京都伏見稲荷神社を分祀して寛保3年(1743)に創建、大房村の鎮守社だったといいます。明治40年大房に鎮座していた八幡社・辨天社・摩利支天社を当社境内に移しています。
社号 | 稲荷神社 |
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祭神 | 宇迦之御魂命 |
合祀 | - |
境内社 | 水神・山王・弁財天・摩利支天・猿田彦太神・幸太神 |
祭日 | 初午、秋例大祭10月15日に近い日曜日 |
住所 | 越谷市北越谷1-15-13 |
備考 | - |
北越谷稲荷神社の由緒
北越谷稲荷神社は、京都伏見稲荷神社を分祀して寛保3年(1743)に創建、大房村の鎮守社だったといいます。明治40年大房に鎮座していた八幡社・辨天社・摩利支天社を当社境内に移しています。
新編武蔵風土記稿による北越谷稲荷神社の由緒
(大房村)
稲荷社
村の鎮守なり、千手院の持、下同じ、
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八幡社
辨天社
摩利支天社(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による北越谷稲荷神社の由緒
稲荷神社<越谷市北越谷四-一二-三(大房字下川戸)>
関東平野を蛇行して流れる元荒川は、大林にある宮内庁埼玉鴨場を過ぎた辺りから、コの字を逆にしたような形に大きく曲流する。大房の鎮守として祀られてきた当社は、この逆コの字の入口付近に鎮座しており、境内の裏手(北側)は、元荒川の川岸である。ちなみに、この辺りの元荒川河畔は桃の名所として知られ、一一代目安藤広重の富士三十六景にも「越谷の桃」として描かれていることで有名である。
当社の創建について、『明細帳』には、「寛保三亥年(一七四三)十二月中創立」との記録がある。これについては、氏子も、「当社は京都伏見稲荷神社を分祀したもので、昔、寛保三年十二月と書いた棟札があった」と伝えており、まず信頼してよいと思われる。ただし、これらの話を裏付ける棟札はいつのまにか失われ、残念ながら、今では確認することができない。
一方、『風土記稿』大房村の項には、村内の神社について、「稲荷社 村の鎮守なり、千手院の持、下同じ、〇八幡社〇弁天社〇摩利支天社」と記されている。ここに見える八幡社は字海道内、弁天社は字下川戸にあったが、明治四十年、字海道内の水神社と共に、当社に移され、境内神社となった。ただし、八幡社の社は、老朽化して本社に合したものか、現在見当たらない。また、摩利支天社も、これと同時期に当社に移されたらしく、当社の境内にはその社もある。(「埼玉の神社」より)
北越谷稲荷神社の周辺図