瓦曽根稲荷神社。元沼津城主中村彦左衛門一栄家の屋敷神
瓦曽根稲荷神社の概要
瓦曽根稲荷神社は、越谷市瓦曽根にある稲荷神社です。瓦曽根稲荷神社の創建年代は不詳ですが、武田勝頼の子千徳丸と共に落ち延びたという元沼津城主中村彦左衛門一栄家の屋敷神として祀られたともいい、江戸時代には瓦曽根村の鎮守社となっていました。
社号 | 稲荷神社 |
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祭神 | 豊受姫神 |
合祀 | - |
境内社 | 厄神社、八坂社、水神社 |
祭日 | - |
住所 | 越谷市瓦曽根1-5-6 |
備考 | - |
瓦曽根稲荷神社の由緒
瓦曽根稲荷神社の創建年代は不詳ですが、武田勝頼の子千徳丸と共に落ち延びたという元沼津城主中村彦左衛門一栄家の屋敷神として祀られたともいい、江戸時代には瓦曽根村の鎮守社となっていました。
新編武蔵風土記稿による瓦曽根稲荷神社の由緒
(瓦曽根村)稲荷社
村の鎮守なり、照蓮院の持
末社。水神、疱瘡神(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による瓦曽根稲荷神社の由緒
瓦曾根は「かわらそね」あるいは「かわらぞね」と読み、元荒川右岸の自然堤防上に位置する。地名は河原の徴高地の意とされる。『風土記稿』には「相伝ふ当村は古へ浅見大学・須賀大炊介・同雅楽之助・同玄蕃・同将監などいへるもの来て開発せしと云」と記されている。また、土着したと伝えられる武士には、武田家滅亡の際、勝頼の子千徳丸と共に落ち延びたという秋山長慶と沼津城主中村彦左衛門一栄の子孫がいる。特に「彦左衛門」の屋号を持つ中村家は、累代にわたり名主を務めてきた。かつて、当家の敷地は広大で、当社の境内と地続きであったという。このことから、当社は中村家の屋敷神として祀られたものとも考えられる。
江戸期には、真言宗慈氏山徳満寺照蓮院の管理を受けていた。この寺は、天正十九年(一五九こ徳川家康から朱印状を受け、五石の寺領を安堵されている。
社蔵の明治十六年と昭和五十五年の棟札には、社殿造営の経緯が記されている。このうち明治十六年の棟札は「元禄二年(一六八九)再建」の墨書銘がある。また、昭和五十五年の棟札は、社殿が老朽化したため本殿を修理、覆星・幣殿を再建した折のものである。
このほか、拝殿には、明治四十年に東郷平八郎が揮毒した日露戦争出征記念の扁額があり貴重である。(「埼玉の神社」より)
瓦曽根稲荷神社の周辺図