金乗寺。鴻巣市小谷にある真言宗豊山派寺院

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金乗寺。旧小谷城内にあった寺院、仁治三年双式板碑

金乗寺の概要

真言宗豊山派寺院の金乗寺は、善光山智周院と号します。金乗寺の創建年代等は不詳ながら、現在河川敷となっている旧小谷城の城内にあったと伝えられています。寛永6年(1632)に荒川瀬替が行われたことから、寛永9年(1635)当地へ移転、慶安2年(1649)には江戸幕府より寺領10石の御朱印状を受領していました。当寺所蔵の仁治三年双式板碑は、鴻巣市考古資料に指定されています。

金乗寺
金乗寺の概要
山号 善光山
院号 智周院
寺号 金乗寺
本尊 阿弥陀如来像
住所 鴻巣市小谷1507
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



金乗寺の縁起

金乗寺の創建年代等は不詳ながら、現在河川敷となっている旧小谷城の城内にあったと伝えられています。寛永6年(1632)に荒川瀬替が行われたことから、寛永9年(1635)当地へ移転、慶安2年(1649)には江戸幕府より寺領10石の御朱印状を受領していました。

新編武蔵風土記稿による金乗寺の縁起

(小谷村)
金乗寺
新義眞言宗、横見郡御所村息璋院末、善光山知周院と號す、慶安年中寺領十石の御朱印を賜ふ、開山詳ならず、中興開山深清寛文十年三月七日化す、本尊彌陀行基の作と云、
薬師堂。これも行基の作、(新編武蔵風土記稿より)

「吹上町史」による金乗寺の縁起

金乗寺(吹上町大字小谷一五〇七)
金乗寺は、現在、小谷の荒川堤防に近く、新義真言宗智山派に属する寺で、比企郡吉見町御所の息璋院の末寺で、善光山智周院と号している。
開基、開山については、旧記にもその記載がなく同寺再建碑によれば寛永九年(一六三二)に、同六年の荒川瀬替によって堤防外に取残され、年々悩まされる水害の危険を避けるため、堤防内の現在地に移ったという。現在地、後述の曹洞宗宝勝寺の道ひとえ東隣に移る以前は、村内の鐘塚にあったという。鐘塚の地名は、かつて小谷城があったと推定される荒川堤防外にあたる地と伝承されている。
境内に町文化財指定の仁治三年(一二四二)の豪勢な板碑が保管されているが、今回同規模で、同年代のものと推定できる板碑が境内地から発掘された。今回発見の碑は浄土信仰に基づく先明遍照の偈と弥陀尊像が刻まれ比丘尼造立とあるが年号が刻まれていない。仁治三年の碑も弥陀信仰の偈文と尊像が刻まれ入道造之とあり、吹上町には数少ない図像板碑である。半肉彫の尊像の刻み方や、板碑の規模は非常に似通っている。仁治三年の板碑は、寛永九年引越普請の際移されたとも、昭和初年堤外で発見されたものともいわれているが定かでない。あれだけの豪華な板碑を造立した入道・比丘尼とも相当の権力財力をもっ実力者で、小谷城・金乗寺に深いかかわりをもったものであろうか。金乗寺の草創は詳らかではないが、鎌倉時代とも言われ相当の古さをもつもののようである。
移転後の慶安二年(一六四九)十一月には、徳川幕府から寺領一〇石の御朱印を賜っており、吹上町として草創も古く、由緒ある寺の一つということができる。
調査によると、宝暦年間(一七五一~六四)以後の歴代住職は、寺の経営にあたるかたわら、郷覚子弟の教育に大きな貢献をした。このことは、法印墓地に並ぶ数多くの筆子碑がそれを物語っている。
明治三十年(一八九七)二月十七日、火災に見舞われ伝統ある本堂庫裡など殿堂の悉くが焼失、境内薬師堂だけがその災を免れた。法燈連綿の菩提寺の災厄に檀徒は悲歎にくれたが、寺ともども再建に立ちあがり、翌々三十二年十二月庫裡再建、境内薬師堂を移転して本堂に引直しの件許可を得て翌々三十四年十一月移転落成となった。現在の本堂は昭和二十九年四月完成のものである。
本尊は、阿弥陀如来像で、木造、寄木造、漆箔、玉眼、通肩、像高三六・二センチの立像で、行基(奈良時代の高僧)の作と伝えるが、教委の調査によると江戸時代後期の作としている。
金乗寺に安置されている地蔵菩薩と恩われる仏像の台座刻銘に「天和三壬亥年三月二日、尊賀、三途河口山焔魔寺」とあり、明治四年十一月廃寺となった焔魔寺の仏像が、同宗派でしかも焔魔寺兼務の金乗寺に移されたものであろう。(「吹上町史」より)


金乗寺の縁起

  • 仁治三年双式板碑(鴻巣市指定考古資料)

仁治三年双式板碑

板碑は、死者の成仏や自らの死後の極楽往生を願って造られた板状石の供養塔で、鎌倉時代から室町時代にかけて盛んに造立された。
秩父産の緑泥片岩(秩父青石)が主に用いられたことから青石塔婆、形状が板状であることから板石塔婆とも呼ばれる。埼玉県は全国でも板碑がもっとも多く、約二万七千基あるといわれている。
この仁治三年銘の板碑は、蓮華座上に阿弥陀如来立像が、下方に紀年銘と偈文(教典などの一節を板碑に刻み、仏をたたえた文)がそれぞれ刻まれている。
金乗寺は、かつて小谷城内に所在した寺であったが、寛永六年に荒川の流路変更工事が行われた際に、当時の所在地が河川敷になったため現在地に移転したと伝えられている。この板碑もその際に移されたと考えられている。
参考:仁治三年(一二四二)寛永六年(一六二九)(鴻巣市教育委員会掲示より)

金乗寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「吹上町史」