法要寺。鴻巣市本町にある真言宗智山派寺院

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法要寺。加賀藩前田家の宿所

法要寺の概要

真言宗智山派寺院の法要寺は、慈雲山医王院と号します。長禄元年(1457)亮恵上人による開基と伝えられます。江戸期には加賀藩前田家の宿所となっていました。

法要寺
法要寺の概要
山号 慈雲山
院号 医王院
寺号 法要寺
本尊 大日如来像
住所 鴻巣市本町2-4-42
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



法要寺の縁起

法要寺は、長禄元年(1457)亮恵上人による開基と伝えられます。江戸期には加賀藩前田家の宿所となっていました。

鴻巣市教育委員会掲示による法要寺の縁起

法要寺は深井寿命院(北本市)の末寺で、寺号は慈雲山医王院法要寺と称し、長禄元年(1457)亮恵上人の開基と伝えられ、本尊には行基作と伝えられる大日如来が安置されている。
法要寺は梅に鉢の寺紋で、加賀前田家と同じ紋を使用している。これは慶安(1648-1652)の頃、加賀前田侯が参勤交代における鴻巣の宿所として法要寺を利用することになった際に寺紋としての使用を許されたものである。
法要寺には市の指定文化財となっている庚申塔をはじめ、市神の狛犬、深井景周の碑、関弥太郎の墓等貴重な文化財が少なくない。

深井景周の碑
深井勘右衛門は三河国に生まれ、十五歳で江戸に出て起倒流柔術を学び、その奥義を得たが、夢想流鎖鎌の術をもよくした。諸国をめぐり、ここ鴻巣に至って深井家に入婿し、八代勘右衛門を継ぎ、名を景周と改めた。後に邸内に道場を開いて多数の門弟を集めその指導にあたり、世に無敵斎先生と称された。
天保3年(1833)6月3日、73歳にて入寂。寿命院に埋葬される。碑は弘化4年(1790)門人一同の志により法要寺境内に建てられたものである。

狛犬
境内不動様の前に一対の石の狛犬が見える。台座に市神街と彫刻され、かつて中仙道に鎮座していた市神様の社前の狛犬であったことを物語っている。
市神社は鴻巣宿の繁栄を願って建立された古い社であったが、明治3年(1870)の突然の大強風によって潰滅し、狛犬のみが残されたものである。

彰義隊関弥太郎の墓
関弥太郎は明治維新に際して彰義隊士として上野寛永寺で戦った徳川直参の旗本であったが、敗戦後は榎本武揚らと五稜郭にて抗戦し、その後どのような経路をたどったものか明らかではないが、明治9年頃より鴻巣に居住し、名も岡安喜平次と改め長唄の師匠として風雅な生活に一生を送ったという。墓は薬師堂前にあり、門人一同と世話人によって建てられたものである。(鴻巣市教育委員会掲示より)

新編武蔵風土記稿による法要寺の縁起

新義真言宗、下深井村寿命院の末。慈雲山医王院と号す。開山亮惠文明3年8月8日寂す。本尊大日を安す。(新編武蔵風土記稿より)


法要寺所蔵の鴻巣市指定文化財

  • 法要寺境内庚申塔

法要寺境内庚申塔

庚申の信仰に基づく庚申塔の造立は、室町時代以来次第に盛んとなり、江戸時代に至ると路傍の石塔として各所に造立されるようになった。 市内の庚申塔はその数も多く、青面金剛神に日天・月天を配したもの、見猿・言わ猿・聞か猿のいわゆる三猿を配したもの、邪鬼を踏まえたもの、文字で庚申と書したもの等その様式も多種にわたるが、この庚申塔は寛政2年(1790)の銘があり、右側面には庚申の由来を記した銘文を持つ市内でも有数の堂々たる庚申塔である。 この庚申塔は当所よりここに建てられたものではなく、明治維新まで中仙道中央に鎮座したと伝えられる市神社の社前に建てられていたものであろうと推定される。市神社は明治3年の大強風により破壊され、左右の狛犬だけが残り、法要寺薬師堂前に移されて現在に至っている。(鴻巣市教育委員会掲示より)


法要寺の周辺図