三ツ木神社。鴻巣市愛の町の神社

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三ツ木神社。江戸期に近郷の信仰を集めた山王社

三ツ木神社の概要

三ツ木神社は、鴻巣市愛の町にある神社です。三ツ木神社は、織田信長の比叡山焼き討ちにより元亀2年(1571)比叡山を逃れた僧が、天正年間(1573-1592)当地に日吉山王権現を祀り創建したと伝えられます。婦人の下の病に霊験があるとして参詣する者も多かったと伝えられ、明治維新後の社格制定に際して無格社とされたものの、明治39年の神社整理令では、村社氷川社を明治40年に合祀、さらに川面村社八幡社、中井村社稲荷社を合祀して当社が村社となっていました。

三ツ木神社
三ツ木神社の概要
社号 三ツ木神社
祭神 大山咋命
相殿 -
境内社 小御嶽社
祭日 例祭4月3日、八坂祭7月20・21日、秋祭り11月25日
住所 鴻巣市愛の町169
備考 -



三ツ木神社の由緒

三ツ木神社は、織田信長の比叡山焼き討ちにより元亀2年(1571)比叡山を逃れた僧が、天正年間(1573-1592)当地に日吉山王権現を祀り創建したと伝えられます。婦人の下の病に霊験があるとして参詣する者も多かったと伝えられ、明治維新後の社格制定に際して無格社とされたものの、明治39年の神社整理令では、村社氷川社を明治40年に合祀、さらに川面村社八幡社、中井村社稲荷社を合祀して当社が村社となっていました。

新編武蔵風土記稿による三ツ木神社の由緒

(三ツ木村)
山王社
婦人腰下の病あるもの祈りて靈驗ありとて、申の日ことに近郷より詣るもの多しと云、輪光院持、
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氷川社
村の産神なり、村持、
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天神社
村持、
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(川面村)
八幡社
若宮八幡社
以上清瀧寺の持、
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(中井村)
稲荷社
村の鎮守なり、西光院持、末社三あり、何れも若宮と稱す、 (新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による三ツ木神社の由緒

三ツ木神社<鴻巣市三ツ木六三七(三ツ木字本村)>
当地は元荒川右岸の低地に位置している。三ツ木の地名は『埼玉県地名誌』によれば、村内に古木又は名木あるいは伝説・由緒を有する木が存していたことから生じたという。
当社は元は「山王権現」と号し、山王塚と称する小高い塚の大欅の下に祀られていた。この辺りでは最も高台であった山王塚には木々が鬱蒼と茂り、神霊が鎮まるにふさわしい場所であった。この塚からは金環や勾玉などが出土したことから古墳であったといわれている。
社伝によれば、元亀二年(一五七一)織田信長の比叡山焼き討ちで逃れた僧が日吉山王権現の神霊を奉持して諸国を巡り、天正年間(一五七三-九二)にこの地に至り、塚の上に瑞光を認めたことから小祠を建て、その神霊を祀ったのが当社の創建で、その後衰微したが、万治年中(一六五八-六一)に輪光院住職鏡尊上人が再興したという。
『風土記稿』三ツ木村の項には「山王社 婦人腰下の病あるもの祈りて霊験ありとて、申の日ことに近郷より詣るもの多しと云、輪光院持」とある。また、文化九-十一年(一八一二-一四)に江戸小日向廓然寺住職の津田大浄が著した『遊歴雑記』には「山王権現の社地ハ方一町に過ず、際だちて強垣構の備あるにもあらず本社拝殿をひとつに作事して、奥行五間半幅弐間に過ず板家根にして上屋の如く、中に山王の宮をすえたり、三方ハ隔子にて中明く、土足のまゝ板敷へ上り、宮を廻り廻り見る様にしたるもの也、その宮僅に五尺にたらずといへども、彫物善尽美尽し甚古雅に見ゆ、正面ハ小祠の戸を左右へひらきて、宮の内能見えて方三尺にハ過べからず、中に三疋の猿あるのみ外にハ一物なし」と当社の様子を記している。
明治初年の神仏分離により別当の輪光寺から離れた当社は、社号を日枝社と改め、社格制定に際して無格社とされた。明治三年の「境内絵図」を見ると、今とは正反対の配置で、境内の西側から参道が始まり、東側の大欅を背に本殿と拝殿が建ち、拝殿の棟続きに神主宅があった。
明治四十年二月二十五日には、大字三ツ木字本村の村社氷川社とその境内社の稲荷社、無格社天満社を合祀し、社号を三ツ木神社と改称して村社に昇格した。次いで、同年五月三十日には、大字川面字八幡の村社八幡社とその境内社の稲荷天神若宮八幡合社、大字中井字本村の村社稲荷社とその境内社の稲荷社・天満社・三峯社・稲荷社を合祀した。日枝社が無格社にもかかわらず、合祀の中心となった理由は、ほかの社よりも信仰があり、財産も多かったからであるという。これら一連の合祀に伴い、境内の配置も現在の形に改められた。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)


三ツ木神社所蔵の文化財

  • 三ツ木神社の算額(鴻巣市指定有形文化財)
  • 三ツ木神社神社の大欅(鴻巣市指定天然記念物)

三ツ木神社の算額

算額とは、和算家が和算の問題と解答を木版に描き、神社仏閣に奉納したもので絵馬の一種である。
三ツ木神社の算額は、関流(関孝和の流派)の和算家都筑利治(旧騎西町)の門人十二名が明治二十八年(一八九五)に奉納した。
現在の鴻巣市域に関係する人としては、平賀喜代三郎(箕田)、萩原藤吉(市ノ縄)、森村誠重郎(西中曽根)、松本幸吉(下谷)の名前が見られる。
和算は、中国の影響を受けて我が国独得の高度な発達を遂げた数学である。江戸時代には関孝和らによって研究が深められ、西洋数学と遜色のない水準に達したが、応用技術と結びつかなかったために科学としての研究は深められなかった。しかし、地方人士の間で一種の知的競技として難問を出し合い、その解答を算額にして公開することが流行した。
算額は」、当時の人たちの知的水準の高さの一端を窺い知る貴重な資料でもある。(鴻巣市教育委員会掲示より)

三ツ木神社の周辺図