牛重天神社。加須市牛重の神社

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牛重天神社。加須市牛重の神社

牛重天神社の概要

牛重天神社は、加須市牛重にある天神社です。牛重天神社の創建年代等は不詳ながら、江戸初期の「武州騎西之絵図」に「新天神」と記されていることから、江戸期以前の創建とされます(旧別当寺の萬福寺は天正2年1574年の創建)。江戸時代を通じて牛重村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際して明治5年村社に列格、明治40年に大六天社・浅間社を合祀しています。

牛重天神社
牛重天神社の概要
社号 天神社
祭神 菅原道真公
相殿 木花咲耶姫命、面足命・惶根命
境内社 -
祭日 春祭り2月25日、夏祭り7月25日、秋祭り211月25日
住所 加須市牛重382-1
備考 -



牛重天神社の由緒

牛重天神社の創建年代等は不詳ながら、江戸初期の「武州騎西之絵図」に「新天神」と記されていることから、江戸期以前の創建とされます(旧別当寺の萬福寺は天正2年1574年の創建)。江戸時代を通じて牛重村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際して明治5年村社に列格、明治40年に大六天社・浅間社を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による牛重天神社の由緒

(牛重村)
天神社
村の鎮守とす、
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第六天社
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淺間社
三宇共に萬福寺持、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による牛重天神社の由緒

天神社<騎西町牛重三八二(牛重字中前)>
当社は口碑によれば、天神様は学問の神様で菅公を祀り、向学心のあるものが祈れば必ずかなうという。また、五穀を守護する作神であるとともに、諸病平癒の御利益があるとも伝える。
当地の江戸期における神社は『風土記稿』牛重村の項に「天神社 村の鎮守とす、第六天社 浅間社 三社共に万福寺持」と載せ、当社が村の鎮守として祀られていたことが知られる。往時、別当を務めた真言宗浅間山万福寺は、天正二年の創立である。
明治初めの神仏分離により寺の管理を離れ、明治五年村社となり、同四〇年、同字の大六天社・浅間社の二社が合祀された。現在、覆屋内の中央に菅原道真公を祀る天神社、右側に木花咲耶姫命を祀る浅間社、左側に面足命・惶根命を祀る大六天社を並祀している。
このうち大六天社は天王様とも呼ばれ神輿を神座として安置し、心柱に白幣と人形の木片(一一センチメートル)を縛り付けている。同社は中組の小坂一家で祀っていたものであった。
一方、浅祀社は当社境内に隣接して、現在の日露戦役記念碑のある塚上に南向きに建ち、参道は五〇Mほどもあったという。覆屋内には、弘化四年の「浅間講中出立の図」の大絵馬が掛かり、往時、浅間講が盛んに行われたことを物語っている。(「埼玉の神社」より)

境内掲示による牛重天神社の由緒

当社は菅原道真を主祭神とし、学問の神として崇敬される。江戸初期に描かれた「武州騎西之絵図」には、当社は「新天神」と記されており、創建は江戸期以前と思われる。
明治四十年には地内の大六天社・浅間社の二社が合祀されている。大六天社は中組の小坂一家で祀っていたもので、天王様とも呼ばれ、毎年夏祭りには神輿が担がれる。浅間社は本殿後方の塚上に鎮座していたが、現在は日露戦役記念碑が建立されている。
本殿には弘化四年銘(一八四七)の大絵馬がある。これは本社である北野天満宮(現京都市)を参詣した時のもので、はるか彼方に霊峰富士を望み、馬に跨って社殿に向かう村人の姿が描かれている。(加須市教育委員会掲示より)


牛重天神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)