宮原神社。比企郡川島町吉原の神社

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宮原神社。摂津国の西宮神社を勧請、旧称西宮

宮原神社の概要

宮原神社は、比企郡川島町吉原にある神社です。宮原神社の創建年代等は不詳ながら、保元・平治年間(1156-1159)の創建とも伝えられ、三保谷郷(吉原・宮前・上新堀・下新堀・表・山ヶ谷戸・牛ヶ谷戸・宿・紫竹)の西端に位置することから、西宮と称され、三保谷郷の総鎮守として祀られていたのではないかといいます。江戸期には吉原・宮前の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治4年村社に列格、大正2年に諸社を合祀して(宮前と吉原から)宮原神社と改号しています。摂津国の西宮神社を勧請した蛭児命(恵比須神)を祀る社です。

宮原神社
宮原神社の概要
社号 宮原神社
祭神 蛭児命(恵比須神)
相殿 -
境内社 三保谷神社、稲荷神社
祭日 春祭り4月7日、夏祈禱7月14日10月14・15日例祭、秋祭り12月7日
住所 比企郡川島町吉原401
備考 -



宮原神社の由緒

宮原神社の創建年代等は不詳ながら、保元・平治年間(1156-1159)の創建とも伝えられ、三保谷郷(吉原・宮前・上新堀・下新堀・表・山ヶ谷戸・牛ヶ谷戸・宿・紫竹)の西端に位置することから、西宮と称され、三保谷郷の総鎮守として祀られていたのではないかといいます。江戸期には吉原・宮前の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治4年村社に列格、大正2年に諸社を合祀して(宮前と吉原から)宮原神社と改号しています。摂津国の西宮神社を勧請した蛭児命(恵比須神)を祀る社です。

境内掲示による宮原神社の由緒

由緒略記
この神域(五一六坪)は後方の旧吉野川曲流の沖積地として前方に周囲三キロの環状自然堤防中樂に囲まれた円田(円形水田)が開け、その北後中央にまつる。
この円田の位置は関東平野のほぼ中程にあり、極めて奇異珍域なり円は古来ご祭神夷の大神の霊験福徳円満に等しく、本社は平安時代後期、保元・平治(一一五六-五九)の創建(八四〇年前)以来、吉原観音寺住職別当、古くは西宮太神社と称し特に近世江戸商人の崇敬篤く多数の奉造品を有す。(境内掲示より)

新編武蔵風土記稿による宮原神社の由緒

(吉原村)
西宮
當村と宮前村との鎮守なり、觀音寺持、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による宮原神社の由緒

氷川神社<川島町吉原四〇一(宮前字宮附。吉原字宮原)>
当社は、かつての宮前村と吉原村の村境に鎮座している。社伝によると、その年月は明らかでないが、摂津国の西宮神社を勧請したことに始まり、元禄五年(一六九二)・宝暦六年(一七五六)と再建を行い更に文政八年(一八二五)に大修理を行ったという。
元禄五年再建の際の棟札には「奉復興吉原邑観音寺鎮守西宮神社一宇」「本願主観音寺住鏡海」とあり、助力衆として吉原村・宮前村・上新堀村・下新堀村・表村・山ヶ谷戸村・牛ヶ谷戸村・宿村・紫竹村の九か村が記されている。この九か村は、中世末期から用いられたと思われる三保谷郷に属していた村々である。
東日本各地への西宮神社の恵比須信仰の本格的な伝播は、恵比須像の神札を配札するようになる寛文年間(一六六一-七三)以降のことであるが、右の棟札から推察するにそれ以前から三保谷郷の総鎮守として祀られていた可能性が高い。なぜ、遠く摂津国にある西宮神社を勧請したのかは明らかでないが、その創建に観音寺がかかわっていたことは間違いないであろう。当社の鎮座地が三保谷郷の一番西に当たる所から「西宮」と称するようになったとも考えられるが、これも推測の域を出ない。
明治四年に村社となり、大正二年に合祀を行ったのを機に、地元である宮前村と吉原村の「宮」と「原」を採って宮原神社と改称した。(「埼玉の神社」より)


宮原神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)