三ツ和氷川神社。川口市三ツ和の神社

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三ツ和氷川神社。旧小淵村鎮守、戸期に奉納された絵馬・算額

三ツ和氷川神社の概要

三ツ和氷川神社は、川口市三ツ和にある氷川神社です。三ツ和氷川神社の創建年代等は不詳ながら、中居・上新田・小淵三村の鎮守として、中居村に鎮座していたといいます。文明年間(1469-1487)に中居から当地(小淵)へ遷座、当地(小淵村)の鎮守として祀られてきました。明治維新後の社格制定に際し明治6年村社に列格していました。江戸期に当社に奉納された絵馬・算額は川口市有形文化財に指定されています。

三ツ和氷川神社
三ツ和氷川神社の概要
社号 氷川神社
祭神 素盞嗚命
相殿 -
境内社 神明社、御嶽社、須賀神社、氷川、稲荷、古峰、第六天
祭日 -
住所 川口市三ツ和3-22-2
備考 旧三ツ和村の鎮守



三ツ和氷川神社の由緒

三ツ和氷川神社の創建年代等は不詳ながら、中居・上新田・小淵三村の鎮守として、中居村に鎮座していたといいます。文明年間(1469-1487)に当地へ遷座、当地(小淵村)の鎮守として祀られてきました。明治維新後の社格制定に際し明治6年村社に列格していました。

新編武蔵風土記稿による三ツ和氷川神社の由緒

(小淵村)
氷川社
村の鎮守なり。当社は古中居村にありし社なり。本地十一面観音を安ず。源永寺の持。
--
神明社二宇
--
第六天社
以上の三社も持前に同じ(新編武蔵風土記稿より)

埼玉県神社庁「埼玉の神社」による三ツ和氷川神社の由緒

氷川神社(鳩ヶ谷市三ツ和三-二二-二<三ツ和字谷中>)
三ツ和は、明治十年に中居・上新田・小淵の三か村が合併したことによって誕生した新しい村である。
当社は、この三か村の鎮守として創建されたと伝えられ、古くは中居村の本社と呼ばれているところに鎮座していたという。『風土記稿』小淵村の項に「氷川社 村の鎮守なり、当社は古中居村にありし社なり、本地十一面観音を安ず、源永寺の持」とあるのも、そうした由来を伝えるものである。ちなみに、当社が、中居村から小淵村に移った時期は、吉田勉家所蔵の「小淵村濫觴記」によれば、文明年中(一四六九-八七) のことという。また、「宗源宣旨写」によれば、享保七年(一七二二)に神祇管領吉田家から正一位の神位を拝受している。
いつのころにか、中居村に八幡神社が、上新田に稲荷神社が創建されたことから、当社は小淵村だけの鎮守となり、神仏分離を経て、明治六年には小淵村の村社となった。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)


三ツ和氷川神社所蔵の文化財

  • 絵馬(川口市指定有形文化財)
  • 算額(川口市指定有形文化財)

絵馬

一、「御小休所の絵図」
天保十四年(一八四三)九月奉納のこの絵馬は、同年四月の江戸幕府十二代将軍徳川家慶の日光東照宮参詣の際、日光御成道の小渕村(三ツ和)の地内に、将軍の小休所が設けられたのを記念して、その風景を「休斉という画家に描かせたものです。日光御成道の松並木や休憩の場所など、当時の様子が良く描かれています。こうした将軍の小休所を描いた絵馬は、他に例がなく、大変貴重です。
材質は桧板で、裏面には熊井、吉田、勅使河原、川俣、矢作、加藤、羽鳥姓の合計五十二人の奉納者の名前が書かれています。
二、「川中島合戦の絵図」
天保十五年(一八四四)三月奉納のこの絵馬は、戦国時代における武田信玄と上杉謙信の戦いを題材にした武者絵馬です。川を挟んで右側に武田の軍勢、左側遠方に上杉の軍勢が睨み合っている様子が描かれています。
材質は杉板を使用し、奉納者として鳩ヶ谷宿田畑吉蔵以下計十九人の名前が書かれています。
なお、江戸時代には庶民の名字使用は、公文書えは許可されませんでしたが、この二点の絵馬から、私的に名字を使用していたことがわかります。(川口市教育委員会掲示より)

算額

算額は江戸時代の中期から明治時代の初め頃までに日本独自の数学を確立した和算家たちが、出題と解答を額にして、神社寺院に奉納したものです。享和四年(一八〇四)の当社の算額は、埼玉県内に現存する中で八番目の古さです。
数学の出題は二問あり、第一問は、三円の直径を求める二次方程式、第二問は、ピタゴラスの定理の開法と、その直角三角形内の五個の内接円の直径を求めるものです。
出題・解答ともに、漢字で書かれていますが、二題とも正確に解かれています。円周率三・一六(現在は三・一四)を使用しているのは、当時としても珍しい例です。
小渕村では、享和二年秋から翌年の春まで、同村西沼の水田に村民総がかりで、悪水路工事をしています。測量・設計・施行を自力で行なった村民たちが、二次方程式や三角法を学び、大工事の完成を祝って奉納したものと思われます。(川口市教育委員会掲示より)

三ツ和氷川神社の周辺図