下新河岸日枝神社。川越市下新河岸の神社

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下新河岸日枝神社。下新河岸開発に際して創建

下新河岸日枝神社の概要

下新河岸日枝神社は、川越市下新河岸にある日枝神社です。下新河岸日枝神社の創建年代等は不詳ながら、当地附近は北条氏康の使者を務めた諏訪右馬亮が開発、開発に際して創建した蓮華院(現観音堂)と共に日枝神社が勧請されたのではないかといいます。明治5年に村社に列格、明治40年に上新河岸の村社厳島神社及び同境内社の水神社・琴平神社を合祀しています。

下新河岸日枝神社
下新河岸日枝神社の概要
社号 日枝神社
祭神 大山咋命
相殿 -
境内社 天神・愛宕合殿社・金毘羅社、厳島神社
祭日 -
住所 川越市下新河岸55
備考 -



下新河岸日枝神社の由緒

下新河岸日枝神社の創建年代等は不詳ながら、当地附近は北条氏康の使者を務めた諏訪右馬亮が開発、開発に際して創建した蓮華院(現観音堂)と共に日枝神社が勧請されたのではないかといいます。明治5年に村社に列格、明治40年に上新河岸の村社厳島神社及び同境内社の水神社・琴平神社を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による下新河岸日枝神社の由緒

(下新河岸)
辨財天社
社の續に池あり
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蓮華院
天台宗、古谷本郷灌頂院の門徒、此堂は木ノ目長者の建立と云と、此人のことは傳へず、郡内木ノ目村に木ノ目長者の屋敷跡と云所あり、是のみにて外に據とすべきことなし、堂の入口の上に菊に五三桐を並べ、下に三ツ鱗の紋を付たり、是等を以て考れば、若し北條氏にゆかりのありし者なりや詳ならず、當院衰へ今は寺院と云べくも非ず、僅に堂を構て觀音を安じたれば、寺號をば唱へず、觀音堂とのみいひ傳へり、
山王天王天神合社、
(上新河岸)
辨財天社
村持(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による下新河岸日枝神社の由緒

日枝神社<川越市下新河岸五五(下新河岸字河岸)>
当地は、以前隣接する寺尾村に属していた。寺尾は天文一五年の川越夜戦の時、小田原から援軍に来て大勝した北条氏康の使者となり、川越城に入ったという諏訪右馬亮によって開発された所である。寺尾及び当地は「九十九曲り仇では越せぬ、通い船路の三十里」の舟歌で有名な江戸と川越を結ぶ水運の河岸で知られ、下新河岸は、正保四年川越城主松平信綱により設けられて以来繁栄をみている。
当社は、蓮華院の境内社として『風土記稿』に「蓮華院天台宗、古谷本郷灌頂院の門徒、本尊観音、此堂は木ノ目長者の建立と云と、此人のことは伝へず、郡内木ノ目村に木ノ目長者の屋敷跡と云所あり、是のみにて外に拠とすべきことなし、堂の入口の上に菊に五三桐を並べ、下に三ツ鱗の紋を付たり、是等を以て考れば、若し北条家などにゆかりありし者なりや詳ならず、当院衰へ今は寺院と云べくも非ず、僅に堂を搆て観音を安じたれば、寺号を唱へず、観音堂とのみいひ伝へり、山王天王天神合社」と載せる。観音堂はその後も移動なく当社に隣接する。以上から、当社は河岸の開かれる以前に、土地開発に伴い開基されたであろう蓮華院の境内に祀られた社の一つであると思われる。
明治五年に村社となり、同四〇年には上新河岸の村社厳島神社及び同境内社の水神社・琴平神社を合祀した。(「埼玉の神社」より)


下新河岸日枝神社の周辺図