三島日光神社。川越市笠幡の神社

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三島日光神社。源頼義の子孫三島高量が三島神社を勧請

三島日光神社の概要

三島日光神社は、川越市笠幡にある三島日光神社です。三島日光神社は、応永3年(1396)に源頼義の子孫、三島高量(応永5年1398年寂)が当地に移住し、修験大泉院を創祀、三島家の「表鬼門の方位除け」として小豆島の三島神社を勧請したと伝えられます。明治期に入り、日光社を合祀、三島日光神社としたといいます。

三島日光神社
三島日光神社の概要
社号 三島日光神社
祭神 事代主命・大山祇命
相殿 -
境内社 -
祭日 10月第一日曜日
住所 川越市笠幡1689
備考 -



三島日光神社の由緒

三島日光神社は、応永3年(1396)に源頼義の子孫、三島高量(応永5年1398年寂)が当地に移住し、修験大泉院を創祀、三島家の「表鬼門の方位除け」として小豆島の三島神社を勧請したと伝えられます。明治期に入り、日光社を合祀、三島日光神社としたといいます。

新編武蔵風土記稿による三島日光神社の由緒

(笠幡村)
三島社
大泉寺持、下皆同、
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権現宮
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大泉院
本山修験、郡中篠井村観音堂配下なり、本尊不動を安ず、開山高量應安五年五月化す、 (新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による三島日光神社の由緒

三島日光神社<川越市笠幡一六八九(笠幡字後大町)>
三島日光神社は、元来は三島社と称し、当地の旧家である三島家が代々屋敷神として祀っていた社であった。三島家は、源頼義の子孫で、康永三年に初代高量が当地に移住して以来、現在まで二二代を数える。また、かつて同家は大泉院と称し、本山派の修験でもあり、八代通郷の時代には一四六人の信徒があったと記録されている。口碑によれば、当社は同家が「表鬼門の方位除け」として小豆島の三島神社から分霊したものというが、その年代は明らかではない。
明治期に入り、一九代通良は医学を修めるために渡欧することになったが、この際、所持する不動産の一切を当地の神田成七に売却した。そのため、当社も家屋敷と共に神田成七の所有となった。神田成七は明治二五年に死去し、その遺産を相続した孫の耕作は、境内地九六坪と共に三島社を新町の共有地として寄附した。これを受けた新町では、近くにあった日光社(『風土記稿』にある「権現宮」か)を合祀し、社名も三島日光神社と改め、字の鎮守として祀ることになり、現在に至っている。
祭神は事代主命・大山祇命の二柱で、昔から八本の幣束を祀っている。明治以降、祀職は尾崎神社社家の伊藤家が世襲しており、現在は伊藤茂枝が宮司を務めている。また、現在の社殿は、旧社殿が老朽化のため昭和三八年の台風で倒れたのを機に新築されたものである。(「埼玉の神社」より)


三島日光神社の周辺図