一ノ割香取神社。春日部市一ノ割の神社

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一ノ割香取神社。元新方領の惣鎮守

一ノ割香取神社の概要

一ノ割香取神社は、春日部市一ノ割にある神社です。一ノ割香取神社の創建年代等は不詳ながら、かつては地内江曾堤に鎮座し、元新方領の惣鎮守として祀られていたことや享徳3年(1454)に末太郎が鰐口を寄進したことなどを、園福寺の住僧祖笈が書き残しています。岩付城主太田氏の家臣井上将監が岩付城落城(天正18年1590年)後に当地で帰農、当社を江曾堤から当地へ遷座、江戸期を通して園福寺が管理していました。

一ノ割香取神社
一ノ割香取神社の概要
社号 香取神社
祭神 経津主命
相殿 別雷命
境内社 諏訪神社、天神社、浅間神社
祭日 お備社3月1日、祭礼7月13日
住所 春日部市一ノ割140
備考 -



一ノ割香取神社の由緒

一ノ割香取神社の創建年代等は不詳ながら、かつては地内江曾堤に鎮座し、元新方領の惣鎮守として祀られていたことや享徳3年(1454)に末太郎が鰐口を寄進したことなどを、園福寺の住僧祖笈が書き残しています。岩付城主太田氏の家臣井上将監が岩付城落城(天正18年1590年)後に当地で帰農、当社を江曾堤から当地へ遷座、江戸期を通して園福寺が管理していました。

新編武蔵風土記稿による一ノ割香取神社の由緒

(埼玉郡市野割)
香取社
村の鎮守にて園福寺あづかれり、村内にわづかの堤あり、當所にては其名を唱へざれど、粕壁宿の邊にては江曾堤とよべり、此社古へは其堤上にありしを、前にいへる井上将監及び大熊弾正などいへるもの、力を合せ當所に引移せりと云、文禄元年園福寺の住僧祖笈が書せし縁起あり、其略に當社元新方領の惣鎮守にて、本地十一面觀音は行基の作なり、昔享徳三年末太郎といへるもの、奇異の靈護を蒙り、鰐口を寄進せり、又平方村林西寺中興呑龍和尚立願せしに、其験ありしことなど、させる證とすべきこともあらざれば、其要を摘てこゝに録す、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による一ノ割香取神社の由緒

香取神社<春日部市一ノ割一-三〇-四(一之割字諏訪)>
大落古利根川と元荒川の間の平野に広がる農業地域の一角に位置する一の割は、古くは「市野割」もしくは「一割目」ともいい、地内にある円福寺の住職祖岌が文禄元年(一五九二)に書き記した同寺の縁起によれば、岩付城主太田氏の家臣井上将監が岩付城の落城後に当地で帰農したと伝えられる。当社は、創建の年代は明らかでないが、前述の円福寺の縁起には、元は新方領の総鎮守で、行基作の十一面観音を本地仏として祀ることや、享徳三年(一四五四)に、末太郎という者が奇異の霊護を蒙り鰐口を寄進したこと、平方村林西寺中興の呑竜和尚が祈願して霊験を得たことのなどが記されている。
一方、『風土記稿』市野割村の項には、これらの話とともに、「一の割の村内にある堤は、かつては『江曾堤』とも呼ばれ、当社はこの堤の上に鎮座していたが、当地を開発した井上将監と大熊弾正という者が力を合わせて現在の境内地に引き移した」という話も見える。ここにいう「江曾堤」は、当社の西三〇〇メートルほどの所にあったが、今では小高い盛土に面影をとどめるばかりとなっており、『明細帳』によれば当社がそこから現在の社地に移ったのは天正年間(一五七三-九二)のことであるという。また、前述の鰐口は、昭和十年代に盗まれてしまったが、『風土記稿』の挿図から「享徳三年本願末太郎 新方壮一披目香取大明神鰐口」の銘があったことがわかる。(「埼玉の神社」より)


一ノ割香取神社の周辺図