八坂香取稲荷合社。春日部市八丁目の神社

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八坂香取稲荷合社。下総国から武蔵国へ編入された際八幡神を相殿

八坂香取稲荷合社の概要

八坂香取稲荷合社は、春日部市八丁目にある神社です。八坂香取稲荷合社の創建年代等は不詳ながら、香取社と称し、永禄元年(1558)に仲蔵院住職秀宥が再建、当地が下総国から武蔵国へ編入された頃に八幡大菩薩を相殿に祀ったといいます。明治36年に境内社だった稲荷神社と八坂神社(牛頭天王)を合わせた合殿とし、明治45年には字樋籠の香取社を合祀しています。

八坂香取稲荷合社
八坂香取稲荷合社の概要
社号 八坂香取稲荷合社
祭神 経津主命、須佐之男命、宇迦之御魂命
相殿 -
境内社 -
祭日 春祭り2月(稲荷)、夏祭り7月(八坂)、秋祭り11月(香取)
住所 春日部市八丁目1
備考 -



八坂香取稲荷合社の由緒

八坂香取稲荷合社の創建年代等は不詳ながら、香取社と称し、永禄元年(1558)に仲蔵院住職秀宥が再建、当地が下総国から武蔵国へ編入された頃に八幡大菩薩を相殿に祀ったといいます。明治36年に境内社だった稲荷神社と八坂神社(牛頭天王)を合わせた合殿とし、明治45年には字樋籠の香取社を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による八坂香取稲荷合社の由緒

(葛飾郡八町目村)
仲蔵院境内)香取社。境内にて社領は自ら一廓をなせり、小名本村及新田の鎮守なり
末社稲荷、天王
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香取社
小名五丁目の鎮守なり、粕壁宿最勝院の持、棟札あり中央に永禄十卯年十二月とあり、年號の兩邊に寄進人の姓名等しるせしと見ゆれど、文字剥落して唯香取八幡兩社のよし、かすかに見ゆ、今は全く香取のみを祀れり、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による八坂香取稲荷合社の由緒

八坂香取稲荷合社<春日部市八丁目一(八丁目字前)>
当地は、古利根川左岸の自然堤防上にあり、江戸幕府が置かれるまでは、この古利根川が国境とされ下総国に属していた。そのため、当社は永享元己酉年(一四二九)に、下総国一宮香取神宮を勧請したと伝えられている。なお、八丁目の由来は、中世の荘を預かる役人の給与として、年貢などが免除された八丁の田を八丁免と称したことによる。
社蔵の棟札や嘉永三年(一八五〇)の『鎮守香取大明神来歴』によると、永禄元年(一五五八)に別当を務めていた真言宗神林山仲蔵院住職秀宥により再建されている。その後、当地が武蔵国葛飾郡となった頃より、相殿に八幡大菩薩を勧請し、共に当村の鎮守土産神として祀った。更に、享保十九年(一七三四)、京都の神祇管領吉田兼雄から香取大明神に正一位を受け、その折の幣帛筥が今も残されている。
現在の社号である八坂と稲荷については、末社として祀られたもので、八坂社は寛文十一辛亥年(一六七一)六月十五日に、新町橋際東の葭の生える川中で、牛頭天王の像が漁の網に掛かって見つかり、これを祀ったもので、今もこの地に祠が残されている。また稲荷社は、元禄十四年に勧請したものである。江戸期までは、当社は別当仲蔵院境内に鎮座する形になっていたが、明治になって境内が独立した。明治三十六年に上地林の境内編入に合わせて、三社が合殿とされた。更に同四十五年には、字樋籠(五丁田)の香取社と同境内社が合祀された。(「埼玉の神社」より)


八坂香取稲荷合社の周辺図