川角八幡神社。毛呂山町川角の神社

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川角八幡神社。町指定文化財の宝篋印塔・芭蕉の句碑

川角八幡神社の概要

川角八幡神社は、毛呂山町川角にある神社です。川角八幡神社の創建年代等は不詳ながら、源頼朝が鎌倉幕府を開いたころ、当地域の村民により創建されたと伝えられます。貞治2年(1363)の苦林野合戦により焼失、社地を当地に改めて応永年間(1394-1428)再建したといいます。江戸期には江戸幕府より社領5石5斗の御朱印状を慶安2年(1649)受領、明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格していました。当社境内の宝篋印塔、芭蕉の句碑はいずれも、旧別当寺だった南蔵寺のもので、南蔵寺が明治維新後廃寺となり、川角小学校として供用されていましたが、学校拡張に際して当地へ遷されています。

川角八幡神社
川角八幡神社の概要
社号 八幡神社
祭神 誉田別尊
相殿 天照皇大神、春日大神
境内社 八坂神社、大黒天
祭日 例大祭10月10日前後
住所 毛呂山町川角1233
備考 -



川角八幡神社の由緒

川角八幡神社の創建年代等は不詳ながら、源頼朝が鎌倉幕府を開いたころ、当地域の村民により創建されたと伝えられます。貞治2年(1363)の苦林野合戦の苦林野合戦により焼失、社地を当地に改めて応永年間(1394-1428)再建したといいます。江戸期には江戸幕府より社領5石5斗の御朱印状を慶安2年(1649)受領、明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格していました。

新編武蔵風土記稿による川角八幡神社の由緒

(川角村)
八幡社
天照大神春日明神を相殿とせり、社領五石五斗の御朱印は、慶安二年に賜ひし由を云へど、小名に神田の名あり、もし當社の領地を唱へしならんには、舊くより社領ありしこと推て知るべし、南蔵寺の持、
南蔵寺
新義眞言宗、今市村法恩寺の末、金剛山地蔵院と稱す、前住英純今法流開山と定む、本尊薬師は銅立像にて、長一尺餘、天竺渡来の像なりと云、
古碑。延文三年十二月十日と彫せり、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による川角八幡神社の由緒

八幡神社<毛呂山町川角一二三三(川角字宮前)>
当社の鎮座する川角は、越辺川流域の低地・台地に位置し、その地名は、地内で越辺川が大きく屈曲することから名付けられたという。
社記によれば、源頼朝が鎌倉に幕府を開いたころ、当地は既に村落を成していたとあり、当社は敬神の念が厚いその村人によって創建された社であるという。
中世においては、鎌倉街道が地内を通っていたため、川角の村は繁栄し、人家も田畑も増え、当時近郷に並ぶものがないほどの大伽藍を誇った崇徳寺が建立されるに至った。
しかし、貞治四年六月、足利基氏と芳賀高貞との戦いの際、兵火に罹り、当社も崇徳院も烏有に帰した。当社はその後、応永年間に社地を改めて再建されたが、崇徳院は再興ならず、地名にその名を留めるばかりとなっている。
近世においても、当社は真言宗南蔵院を別当として栄え、慶安二年には五石五斗の朱印地を賜っている。
明治初めの神仏分離により南蔵寺の管理を離れ、明治五年に村社となった。また、大正元年に字原の稲荷神社を合祀したが、同社の氏子であった人々の強い要望により、昭和二九年に旧地に戻された。
祭神は誉田別尊で、天照皇大神と春日大神を配祀するが、これは室町末期から流布された三社託宣によると思われる。(「埼玉の神社」より)


川角八幡神社所蔵の文化財

  • 八幡神社の宝篋印塔(毛呂山町指定有形民俗文化財)
  • 芭蕉の句碑(毛呂山町指定記念物)

八幡神社の宝篋印塔

この宝篋印塔は、現在の川角小学校の場所にあった越生町法恩寺の末寺である南蔵寺の境内に置かれていたものである。南蔵寺は、明治時代初めの廃仏毀釈により廃寺となり、宝篋印塔も大正三年(一九一四)二葉学校(現川角小学校)の拡張に伴い、現在はる八幡神社の境内に移動された。江戸時代の天明八年(一七八八9正月に建てられたもので、当時多くの餓死者を出した天明の飢饉に対する供養塔と考えられる。平成二年(一九九〇)二月十五日、現在位置に移転改修する際、塔身(中段の方体部)の中に宝篋印陀羅尼経、観音経、般若心経等が納められているのが確認された。宝篋印塔は、平安時代末期から建立され始め、鎌倉時代から江戸時代にかけて数多く建立された、塔身に宝篋印陀羅尼経を納める供養塔である。町内に残る石塔の中では大型で優美な造りであり、たいへん貴重である。(毛呂山町教育委員会掲示より)

芭蕉の句碑

道傍の むくげは馬に 喰れけり(芭蕉翁)
この句は、松尾芭蕉が馬上からむくげの花を眺めていた時、乗っていた馬が花をぱくっ、と食べてしまった様を詠んだ一句です。
左側面と裏には<三世春秋庵連中 文政十二歳次(一八二九)己丑春三月>とあります。三世春秋庵とは、毛呂山の俳人川村碩布のことで、建碑の当時、この地の俳壇は春秋庵の最盛期でした。碩布は、文化十三年(一八一六)に春秋庵を継承し、三世と称しました。この句碑は、碩布の一門が建てたもので、句を記したのも碩布であると言われています。
当初は、大字川角にあった南蔵寺の境内に建てられていましたが、大正三年(一九一四)に当地に移転しました。(毛呂山町教育委員会掲示より)

川角八幡神社の周辺図