観音寺。飯能市山手町にある真言宗智山派寺院

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般若山観音寺。武蔵野七福神、武蔵野三十三観音霊場

観音寺の概要

真言宗智山派寺院の観音寺は、般若山長寿院と号します。創建年代は不詳ですが、江戸期には、慶安年中(1648-1651)に観音堂領として3石5斗の朱印状を拝領しています。本尊の如意輪観世音は弘法大師作と伝えられ、武蔵野三十三観音霊場24番、高麗郡三十三ヶ所霊場10番、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所64番、武州八十八所霊場83番となっている他、数多くの仏像を所蔵しており、寿老人は武蔵野七福神の一つとなっています。

観音寺
観音寺の概要
山号 般若山
院号 長寿院
寺号 観音寺
本尊 如意輪観世音菩薩像
住所 飯能市山手町5-17
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



観音寺の縁起

観音寺の創建年代は不詳ですが、江戸期には、慶安年中(1648-1651)に観音堂領として3石5斗の朱印状を拝領しています。慶應4年の飯能戦争では振武軍が立てこもり、能仁寺智観寺広渡寺とともに兵火に罹りましたが、本堂は明治17年、福寿殿は明治42年に建立しています。

新編武蔵風土記稿による観音寺の縁起

観音寺
般若山長寿院と号す。慶安年中観音堂領3石5斗の御朱印を賜ふ。新義真言宗、郡中新堀村聖天院末、中興開山長誉享保20年8月11日寂す。本尊不動を安す。
観音堂
如意輪観音を安ず。木の坐像にて長2尺2寸5分。弘法大師の作なりと云。
住吉諏訪菅神疱瘡神七ツ石。五坐合社。
薬師堂
寺寶。瀧見観音画像一軸。可翁の筆なりと云、いと古色に見ゆ。(新編武蔵風土記稿より)

埼玉県掲示による観音寺の縁起

般若山長寿院観音寺は真言宗の寺で、市街地の中の寺として親しまれ、江戸時代(文化・文政期ごろ)には、高麗郡三十三ヶ所霊場の10番札所として庶民の信仰をあつめた。「法の音幾世耐えせず仰ぐらん百の願いの人の心よ」という巡礼御詠歌も残されている。
如意輪観世音を本尊としているが、西国三十三番・坂東三十三番・秩父三十四番観音霊場の各御本尊の写しを合わせた百観音も本堂に安置されている。
また境内には、文殊菩薩・不動明王・毘沙門天・大歓喜天・茶枳尼天・弁財天・大黒天・寿老人・布袋尊などもまつられており、特に天狗地蔵は幼児のすこやかな成長を祈る人たちの信仰が厚い。
堂内の建物は、慶應4年5月に起こった「飯能戦争」によってことごとく焼失したが、明治16年に再建された。
境内には、鎌倉期のものといわれる五輪の塔や板碑がある。また俳聖芭蕉の句碑や水原秋桜子の句碑もある。(埼玉県掲示より)

飯能商工会議所青年部による観音寺の縁起

飯能鬼子母神が、ゆかりの地「真言宗智山派観音寺」に建立され、同住職服部融亮導師により新しく開眼披露されたのは平成19年11月23日のことです。吉祥果ザクロを手に持ち、胸に子を抱く鬼子母神は、古来より安産・子育て・蓄財・吉祥の仏として人々の信仰を集めて参りました。
この鬼子母神堂は観音寺宗祖弘法大師が遣唐使として学んだ長安(中華人民共和国西安市)青龍寺の土が御堂下に埋められておりザクロの街、西安「青龍寺」とザクロの郷、飯能「観音寺」との友好のシンボルでもあります。
また飯能鬼子母神は、ザクロの里飯能の象徴として、飯能商工会議所青年部が創立間もなく進めてきた飯能名物づくり事業の一環でもあり、尊像は、飯能在住の彫刻家、佐藤敏明氏の手により、地元西川材の檜から創出され、御堂は現代の名工、吉澤良男氏をはじめ地元建設関連企業の熱意と裏面に連名の多くの寄進による浄財で完成を見ました。周辺の飯能河原・天覧山と共に飯能観光拠点のひとつにもなっています。(飯能商工会議所青年部掲示より)


観音寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「飯能市史資料編Ⅳ社寺教会」