上直竹富士浅間神社。飯能市上直竹下分の神社

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上直竹富士浅間神社。上・下直竹村の鎮守

上直竹富士浅間神社の概要

上直竹富士浅間神社は、飯能市上直竹下分にある神社です。上直竹富士浅間神社の創建年代等は不詳ながら、寛正4年(1463)・寛永19年(1642)・正保3年(1646)奉納の鰐口が残されていることから、少なくとも室町時代(1463年)には祀られ、江戸期には上・下直竹村の鎮守として祀られていました。明治維新後の社格制定に際して明治5年村社に列格、明治40年付近の愛宕神社外6社を合祀しています。

上直竹富士浅間神社
上直竹富士浅間神社の概要
社号 富士浅間神社
祭神 木花開耶姫命
相殿 天照大御神、加具土神、倉稲魂命、天之御中主命、大山祇神、崇徳天皇
境内社 鳳神社、雷神、妙見
祭日 7月27日
住所 飯能市上直竹下分300-1
備考 -



上直竹富士浅間神社の由緒

上直竹富士浅間神社の創建年代等は不詳ながら、寛正4年(1463)・寛永19年(1642)・正保3年(1646)奉納の鰐口が残されていることから、少なくとも室町時代(1463年)には祀られ、江戸期には上・下直竹村の鎮守として祀られていました。明治維新後の社格制定に際して明治5年村社に列格、明治40年付近の愛宕神社外6社を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による上直竹富士浅間神社の由緒

(上直竹村)
淺間社
上下直竹村の鎮守なり、例祭六月十五日、本山修驗、南仙寺の持なり、
富士山
山麓に淺間社あり、其西に瀧あり、飛流三丈許、盤岩絶壁最も勝襞の地なり、村内南仙寺持、この山の山足西南は間野に跨り、北は川崎に跨り、東は宮脇に跨る、土人是をかの富嶽の駿河・甲斐・伊豆三國に、跨れるになぞらへてかく名づけり、中隅に嫗ヶ嶽あり、是よりして上は女人を禁ず、土人傳へに往古媼化して石となると云、絶頂に小社あり、これを奥の院とす、土人も夏にあらざれば登らず、登ること八九町、松檜及び雑木生茂り、坂路曲經最嶮し、
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南仙寺
富士山富士坊東光院と號す、本山修驗にて篠井觀音堂配下なり、本尊不動を安ず、 (新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による上直竹富士浅間神社の由緒

富士浅間神社<飯能市上直竹下分三〇〇-甲(上直竹下分字滝之入)>
当社は富士山と称する山の麓に鎮座し、山頂に奥社を祀っている。
『風土記稿』には「浅間社 上下直竹の鎮守なり、例祭六月十五日、本山修験、南仙寺持」とあり、更に「富士山 山麓に浅間社あり、其西に滝あり、飛流三丈許、盤岩絶壁最も勝概の地なり、村内南仙寺持、この山の山足西南は間野に跨り、北は川崎に跨り、東は宮脇に跨る、土人是をかの富獄の駿河・甲斐・伊豆三国に、跨がれるになぞらへてかくは名づけり、中隅に嫗ケ嶽あり、是よりして上は女人を禁ず、土人伝へに往古嫗化して石となると云、絶頂に小社あり、これを奥の院とす、土人も夏月にあらざれば登らず、登ること八九町、松檜及び雑木生茂り、坂路曲径最嶮し」と載る。北の川崎からの登り口を吉田口、東の宮脇からの登り口を砂走り口、間野からの現在の参道の登り口を御殿場口と富士山にちなんだ呼び名が付けられている。奥宮を少し下った山腹には、県指定天然記念物の推定樹齢七〇〇年のタブの巨木がある。
由緒は、『明細帳』に「当社ハ創立年紀不詳ト雖モ寛正四年十二月七日吉田村(文字不分)奉納ノ鰐口又寛永十九年壬午五月(文字不分)入間郡柏原村神田市右エ門奉納ノ鰐口尚又正保三年十月武州杣保内間野村木崎弥右エ門奉納ノ鰐口現存ス因テ寛正年前已ニ創立アリシナラン徳川旧幕府検地ノ際境内御除地一反一畝賜ル明治五年社格御取調ノ節村社ニ書上済」とあり、室町期の創立と思われる。
『明細帳』に「文字不分」の記述が二カ所に見られるが、現存するそれぞれの鰐口は、前者に「吉田郷河前薬師堂」、後者に「東光院武州高麗郡間野富士鰐口」の銘文を見ることができ、神仏分離当時、神社界の仏教色を廃除しようとの方針がうかがわれる。
明治四〇年には、大字上直竹三ツ久保の愛宕神社、字下間野の稲荷神社・琴平神社、字宮ノ脇の神明社、字郷戸の御中主神社、字上川崎の山祇神社、字堂ノ入の稲荷神社を合祀した。
主祭神は木花開耶姫命である。内陣には幣束を祀り、文政二年の稲荷神社再建棟札を併せて蔵する。往時の社殿は現在地よりやや登った平地に鎮座していたといわれるが、詳細は明らかでない。境内には、妙見宮・風神社・竜神・大日如来を祀る。
神仏分離以前は富士浅間大菩薩と称し、富士山富士坊東光院南仙寺が別当を務めていた。南仙寺は、本山派修験で、篠井村観音堂配下であり、本尊不動明王を安置する。初代義澄法印(嘉禎三年没)より別当を務めた南仙寺は、明治初めの神仏分離により復飾し神職となり、現在宮司を務める武本雄爾で二九代目である。なお、幕末から明治期にかけて祀職を務めた武本祇直は、地域社会の教育向上に尽力し、多くの人材を世に送り出したという。(「埼玉の神社」より)

「飯能市史資料編Ⅳ社寺教会」による上直竹富士浅間神社の由緒

富士浅間神社(大字上直竹下分字滝ノ入300)
創建年月日は、はっきりしないが、寛正4年(1463)12月7日吉田邨□□□□が奉納の鰐口、寛永19年(1642)5月入間郡柏原村神田市右衛門奉納鰐口、正保3年(1646)10月武州杣保内間野村木崎弥右衛門奉納の鰐口が現存する。よって寛正以前の創立と思われる。
明治5年村社に列格し、同40年5月付近の愛宕神社外6社を合祀した。(「飯能市史資料編Ⅳ社寺教会」より)


上直竹富士浅間神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「飯能市史資料編Ⅳ社寺教会」