東神社。飯能市井上の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

東神社。悪病流行に際して八雲社を勧請

東神社の概要

東神社は、飯能市井上にある神社です。東神社は、江戸期当地に悪病が流行した際に、これを防ごうと八雲社を勧請して悪疫を祓ったのが創始だと伝えられます。明治5年村社に列格したものの、境内狭隘のため村社の基準を満たさず、字宮ノ前の三島神社地へ遷座することになったものの、結局現在地を広げて遷座祭を執行したといいます。大正5年に字宮ノ前の三島神社を合祀、当地の小字に因んで東神社と改称しています。

東神社
東神社の概要
社号 東神社
祭神 素戔嗚尊、大日孁貴尊、火産霊命、事代主命
相殿 -
境内社 天満宮、山の神
祭日 春祭4月13日
住所 飯能市大字井上399
備考 -



東神社の由緒

東神社は、江戸期当地に悪病が流行した際に、これを防ごうと八雲社を勧請して悪疫を祓ったのが創始だと伝えられます。明治5年村社に列格したものの、境内狭隘のため村社の基準を満たさず、字宮ノ前の三島神社地へ遷座することになったものの、結局現在地を広げて遷座祭を執行したといいます。大正5年に字宮ノ前の三島神社を合祀、当地の小字に因んで東神社と改称しています。

新編武蔵風土記稿による東神社の由緒

(上井ノ上村)
高根社
坂組の鎮守なり、神職杉山因幡吉田家の配下なり、
(下井ノ上村)
神明社
熊野社
八幡社
以上皆村の持なり、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による東神社の由緒

東神社<飯能市井上三九九(井上字阪)>
当社は高麗川右岸に鎮座し、近くには鎌倉坂が通る。村名の由来は井は水を指し、場所が川の上にあるところから付けられたものといわれる。村は高麗川を挟む谷あいの地で細長く、土壌は小石交じりで畑作にはあまり適さず往時の産業は林業・養蚕が中心であった。
口碑によると、江戸期当地に悪病が流行し多くの村人が倒れた。そのため村人はこれを防ごうと八雲社を勧請し、夏祭りを盛んに行い悪疫を祓ったという。しかし、明治五年に村社となった後、夏祭りを中止したため、現在では当時の行事をうかがうことはできない。
祭神は、往時牛頭天王を祀っていたが、神仏分離に伴い素盞嗚尊と改めた。
明治五年、当社は村の重立ちの努力により村社となった。村社の選定基準は神社の規模の大きいことと村の中央に位置するということの二点であったが、当社の境内地は非常に狭く、熊谷県の社寺境内外区別検査において問題を指摘された。このため、一旦比較的境内の広い字宮ノ前の三嶋社境内を引き裂き、当社をそこへ遷座する計画を立てたが、三嶋社が村のはずれに位置することが障害となり、実行に移されず、結局、現在地を広げて遷座祭を執行した。大正五年に三嶋社は当社に合祀され、当社は社名を八雲社から鎮座地の小字にちなみ東神社と改めた。(「埼玉の神社」より)

飯能市史資料編による東神社の由緒

報告書、明細帳等によれば、創建年月日は、はっきりしないが、明治5年村社に列した。同6年12月熊谷県に於て、社寺境内外区別検査の際、境内狭あいのため、当村雑社三島神社の境内を分割、2,475㎡の土地を当社の境内とし、ここに遷座の指令があったが、該地は不便な上に険阻なので、同11年3月許可を得て、その地を上地し、現在地に遷座した。明治45年3月29日、畑881.1㎡を境内に編入。大正5年7月18日井上字宮前の無格社、三島神社を合祀の上、従来の社号や雲神社を東神社と改称した。(飯能市史資料編より)


東神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「飯能市史資料編Ⅳ社寺教会」