畠山館跡。深谷市畠山にある旧跡・名所

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畠山館跡。埼玉県指定史跡の円墳群

畠山館跡の概要

畠山館跡は、深谷市畠山にある名所旧跡です。畠山館跡は、畠山庄司重能が当地に構えた館跡で、その子畠山重忠は菅谷館跡に館を移すまで当館跡に住んでいたとされます。元久2年(1205)に畠山重忠・重秀父子が二俣川で討たれた後には、従者が畠山重忠の甲(八幡社)を当地に埋めて奉祀、八幡社が祀られていました(井椋神社末社八幡神社に合祀)。畠山重忠没後の百回忌には、嘉元2年(1304)銘の板石塔婆が造立され(市指定文化財)、江戸期には畠山重忠及び主従の墓とされる五輪塔4基が当地に祀られていました。明治維新後(明治17年頃)に畠山重忠の墓とされる五輪塔2基が満福寺から遷され、現在は五輪塔6基が覆屋内に安置(埼玉県指定史跡)されています。畠山重忠にゆかりの伽羅の木が植樹されるなど整備され、現在は畠山重忠公史跡公園となっています。

畠山館跡
畠山館跡の概要
旧跡・名所名 畠山館跡
みどころ 埼玉県指定史跡
入場時間 -
入場料 -
住所 深谷市畠山
備考 -




畠山館跡の縁起

畠山館跡は、秩父市吉田から深谷市畠山に居を移した畠山庄司重能が当地に構えた館跡で、その子畠山重忠は菅谷館跡に館を移すまで当館跡に住んでいたとされます。元久2年(1205)に畠山重忠・重秀父子が二俣川で討たれた後には、従者が畠山重忠の甲(八幡社)を当地に埋めて奉祀、八幡社が祀られていました(井椋神社末社八幡神社に明治41年合祀)。畠山重忠没後の百回忌には、嘉元2年(1304)銘の板石塔婆が造立され(市指定文化財)、また江戸期には畠山重忠及び主従の墓とされる五輪塔4基が当地に祀られていました。明治維新後(明治17年頃)に畠山重忠の墓とされる五輪塔2基が満福寺から遷され、現在は五輪塔6基が覆屋内に安置(埼玉県指定史跡)されています。畠山重忠にゆかりの伽羅の木が植樹されるなど整備され、現在は畠山重忠公史跡公園となっています。

新編武蔵風土記稿による畠山館跡について

(男衾郡畠山村)
古城蹟
畠山次郎重忠の城蹟と云傳ふ、村の中程にて廣一町四方許、平衍の地なり、今林木叢生して小土手殘れり、八幡の小社あり、其後の方に五輪塔四基立り、中央なる一基は高六尺許、其餘は稍小なり、共に碑字なし、又側に嘉元二年卯月としるせる古碑あり、何人の墓石なるを傳へず、是も畠山一族の墓ならんと云、又城蹟の邊に重忠の井と唱ふる古井二あり、按に重忠が比企郡菅谷の館に住せしことは、世に知る所なり、然れども此人世々畠山の庄司たるときは、先代或は重忠初年までも、此所に住むせしこと、理に於て然るべし晩年は菅谷に移りしこと勿論なり、【東鑑】重忠討死の條に、十九日小衾郡菅谷館を出云々、此文郡名を誤しより、當所則菅谷館蹟の如く思ふ人もあるべけれど、菅谷館と當所とはおのづから別なり、混じて同所とすべからず、猶比企郡菅谷村の條合せ見るべし、(新編武蔵風土記稿より)

埼玉県掲示による畠山重忠墓について

畠山重忠公の墓
鎌倉時代の関東武士を代表する武将である畠山重忠公は、長寛二年(一一六四年)秩父庄司重能の二男として、現在のこの地の畠山館に生まれ幼名を氏王丸と言い、後に畠山庄司次郎重忠となった。
剛勇にして文武両道にすぐれ、源頼朝に仕えて礼節の誉れ高く県北一帯の支配のみならず、伊勢国沼田御厨(三重県)奥州葛岡(岩手県)の地頭職を兼ね、鎌倉武士の鑑として尊敬されたが、頼朝なきあと北条氏に謀られて、元久二年(一二〇五年)六月二十二日に二俣川にて一族ともに討たれた。時に重忠四十二歳、子重秀は二十三歳であった。
この畠山館跡には、重忠公主従の墓として六基の五輪塔がある。
また、館跡には嘉元二年(一三〇四年)の紀年号のある百回忌供養の板石塔婆、芭蕉句碑や畑和(元埼玉県知事)作詞による重忠節の歌碑などがあり、館の東北方には重忠生湯の井戸などもあって、通称「重忠様」と呼ばれて慕われ、現在は、この地一帯が重忠公史跡公園として整備されている。(埼玉県掲示より)

境内掲示による畠山重忠墓ついて

畠山館跡には現在6基の五輪塔が残されています。昭和57年の「畠山重忠墓」覆屋架設の際に五輪塔の配置が変更され、現在のような姿になっています。
五輪塔それぞれの造立時期については、昭和57年の「畠山重忠墓」覆屋架設に伴う発掘調査の結果により、大まかな時期が分かっています。
6基の五輪塔については、もともと現在の「畠山重忠墓」のある場所に4基、残り2基は満福寺から移されたものと推測されています。
また、江戸時代(文化・文政期)に編纂された『新編武蔵風土記稿』では満福寺にあった2基が「畠山次郎重忠墓」とされていることから、『新編武蔵風土記稿』の成立以後、満福寺の五輪塔が移動して(明治17年頃とされています)6基が集まり、「畠山重忠墓」として顕彰され始めたのではないかという説があります。ただし、6基のうちどの2点が移動したのかは不明です。
なお、昭和57年の「畠山重忠墓」覆屋架設にともなう発掘調査の結果、墓所の造営は鎌倉時代に始まっており、墓所及び館跡は、室町時代中期以降まえ存続していたとみられることが分かっています。(境内掲示より)


境内掲示による板石塔婆ついて

板石塔婆
主尊は三弁宝珠阿弥陀一尊・種子(キリーク)記年銘は嘉元二年申辰(一三〇四年)卯月(四月)九日
周辺に彫られている文字は、梵字の光明真言である。
嘉元二年は畠山重忠公が武蔵国二俣川(現横浜市内)で討死した元久二年(一二〇五年)から百年目にあたり、百回忌供養のために建立されたものと伝えられる。(深谷市教育委員会掲示より)

境内掲示による伽羅の木ついて

伽羅の木の由来
この木はさいたま市浦和区の常盤公園内にあった伽羅の木を親木としております。
親木には畠山重忠公が先祖供養のため、秩父にあった一族の墓地に植えたとの伝承があり様々な人の手を経て、明治時代に浦和裁判所の庭に移植され、裁判所移転後の跡地が常盤公園となるとそのまま残されました。所在地である浦和市、その後さいたま市の指定文化財となりましたが、枯れてしまい現存しません。樹勢が衰えたことから挿し木による世代交代が図られた際に、当時の川本町が苗木を譲り受け、ここに植え付けました。(深谷市教育委員会掲示より)

畠山館跡の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」