西島稲荷神社。深谷市田所町の神社

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西島稲荷神社。一の谷の合戦で戦死した岸井友衛門が勧請

西島稲荷神社の概要

西島稲荷神社は、深谷市田所町にある神社です。西島稲荷神社は、一の谷の合戦で戦死した岸井友衛門が山神を勧請したと伝えられ、その後拓かれた当地の村鎮守の稲荷として祀られ流ようになったと伝えられます。

西島稲荷神社
西島稲荷神社の概要
社号 稲荷神社
祭神 倉稲魂命
相殿 -
境内社 古峯、庚申
祭日 二月初午日、春祭り4月3日、秋祭り11月3日
住所 深谷市田所町22-2
備考 -



西島稲荷神社の由緒

西島稲荷神社は、一の谷の合戦で戦死した岸井友衛門が山神を勧請したと伝えられ、その後拓かれた当地の村鎮守の稲荷として祀られ流ようになったと伝えられます。

新編武蔵風土記稿による西島稲荷神社の由緒

(西島村)稲荷社
一は深谷宿の内新田町、一は稲荷町の鎮守なり、共に村持(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による西島稲荷神社の由緒

稲荷神社<深谷市西島一〇五九(西島字元西)>
櫛挽台地の北端部に位置する当社の境内地は、参道に立ち並ぶ朱塗りの鳥居と杜の緑がよく調和し、厳かな雰囲気を醸し出している。
鎮座地のある西島は、『風土記稿』に「元深谷宿の内なりしが、正保(一六四四-四八)の改以前に別村となれり」とあるように深谷宿から分離して成立している。また、当社の社地は、西島のうち古くは新田町と呼ぶ所にあり、この新田町について、『深谷古来鑑』は「新田町元来畑の所、同年(慶安四年・一六五一)割替り申候」と、当所が畑地であったことを記している。
当社の創建を、『大里郡神社誌』は、鎌倉時代に当地方を支配した阿部六弥太に仕えた岸井友衛門が祀ったと述べている。なお、この岸井友衛門は、一の谷の合戦において戦死している。また、口碑によれば、大昔は山神であったが、途中から稲荷が来たので、ふたいろの呼び方があるといわれている。これを裏付けるように、氏子の小暮清家所蔵の古絵図や『中山道分間延絵図』には山神と載り、『風土記稿』は「稲荷社二宇一は深谷宿の内新田町、一は稲荷町の鎮守なり、共に村持」と、稲荷社として載せている。
これは、大昔武将の氏神として祀られた当社が、いつしか台地上に鎮まる山神となり、やがて畑地として開かれるうちに村鎮守の稲荷として祀られ、更に、商売繁昌の神となった経緯を表すものであろう。(「埼玉の神社」より)


西島稲荷神社の周辺図