金蔵院。富士見市上南畑にある真言宗智山派寺院

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密樹山金蔵院。上南畑村立徳明学校に供用

金蔵院の概要

真言宗智山派寺院の金蔵院は、密樹山と号します。金蔵院は、法印承秀和上が慶長15年(1610)に開山・創建、江戸期には千手院・東光寺・地蔵院・常円寺・閻魔堂の末寺を擁する本寺格の寺院だったといいます。明治維新後には、明治7年から明治22年まで上南畑村立徳明学校として本堂が供されていました。

金蔵院
金蔵院の概要
山号 密樹山
院号 金蔵院
寺号 -
住所 富士見市上南畑302
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



金蔵院の縁起

金蔵院は、法印承秀和上が慶長15年(1610)に開山・創建、江戸期には千手院・東光寺・地蔵院・常円寺・閻魔堂の末寺を擁する本寺格の寺院だったといいます。明治維新後には、明治7年から明治22年まで上南畑村立徳明学校として本堂が供されていました。

境内石碑による金蔵院の縁起

金蔵院本堂・鐘楼堂新築並び山門改修記念碑
当山は新義真言宗山城国醍醐報恩院の末寺として、慶長十五年(一六一〇)に法印承秀和上によって開山創立された。貞享年間に火災にあい堂宇を全焼したが、第三世法印秀賢和上の代、元禄二年(一六八九)に前本堂が再建された。その後、山門が明和三年(一七六六)に、鐘楼堂は阿寧六年(一七七七)に建立され、着々と堂宇が整えられ、本寺格として千手院・東光寺・地蔵院・常円寺・閻魔堂・の末寺を有するようになり、明治時代になって、京都総本山智積院の末寺となった。
明治五年(一八七二)学制令発布により、明治七年寺子屋から上南畑村立徳明学校として本堂が仮校舎となり、明治二十二年南畑学校と合併するまで本堂で、子供たちが勉学に励んだ。
元禄ン円に再建された本堂は三百有余年の歳月とともに老朽化が著しく、総代会議により、平成十四年四月耐震診断を受け、その結果、倒壊又は大破壊の危険があると診断され、その診断を基に総代会において、協議委員会を組織し、協議、検討を進めることに決まる。(以後省略)(境内石碑より)

新編武蔵風土記稿による金蔵院の縁起

(上南畑村)金蔵院
新義眞言宗、京都醍醐報恩院末、密樹山と號す、本尊如意輪観音を安ず、當寺は慶長十五年起立せしと云傳へたるのみにて詳なることを知ず、中興開山承秀は、明暦二年三月廿四日寂すといふ、
撞鐘。安永六年の銘文あり、(新編武蔵風土記稿より)


金蔵院の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」