針ケ谷氷川神社。富士見市針ケ谷の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

針ケ谷氷川神社。館氷川神社分祀して元禄年間に創建

針ケ谷氷川神社の概要

針ケ谷氷川神社は、富士見市針ケ谷にある氷川神社です。針ケ谷氷川神社は、川越藩の御蔵番を勤めていた横山・村田・細田の三名が隠棲してより当地の開拓が進み、館氷川神社を分祀して元禄年間(1688-1704)に創建したといいます。ただ、別当寺だった西光院が正和2年の草創とされることや、当社本殿内には、「昔のお宮」が祀られていることから、何らかの社が元禄年間以前に祀られていたのではないかとも推測されています。明治維新後の社格制定に際して村社に列格、明治40年稲荷神社をはじめ、八幡神社・神明社・大六天社を合祀しています。

針ケ谷氷川神社
針ケ谷氷川神社の概要
社号 氷川神社
祭神 素盞嗚尊
相殿 -
境内社 稲荷社・八幡・神明・牛頭天王・大六天
祭日 例大祭4月12日
住所 富士見市針ケ谷1-39-2
備考 -



針ケ谷氷川神社の由緒

針ケ谷氷川神社は、川越藩の御蔵番を勤めていた横山・村田・細田の三名が隠棲してより当地の開拓が進み、館氷川神社を分祀して元禄年間(1688-1704)に創建したといいます。ただ、別当寺だった西光院が正和2年の草創とされることや、当社本殿内には、「昔のお宮」が祀られていることから、何らかの社が元禄年間以前に祀られていたのではないかとも推測されています。明治維新後の社格制定に際して村社に列格、明治40年稲荷神社をはじめ、八幡神社・神明社・大六天社を合祀しています。

境内掲示による針ケ谷氷川神社の由緒

創立年月日は不詳であるが、元禄年間に針ヶ谷村が川越領となり、館村氷川神社(現・志木市柏町に鎮座)を分祀し、当社を創建したと云う(志木町字城山村社氷川神社社蔵記録)。
明治五年、社格御制定の節に、古来より一村の鎮守であることから村社に列した。氏子の魂の寄り集う所として、また里人の唯一の慰安として殷賑を極めた。
村民信仰の殿堂として、神徳極めて高く、社殿も次第に整い、現在の社殿は平成四年十一月吉日に氏子の総意により完成を見たものである。(境内掲示より)

「埼玉の神社」による針ケ谷氷川神社の由緒

<富士見市針ケ谷八五(針ヶ谷字北通)>
新河岸川右岸の沖積地とこれに続く台地が針ヶ谷である。
江戸期は川越藩領で、口碑に当地の草分け及び当社の創建について「昔、川越の殿様伊豆様の御蔵番を勤めていた横山・村田・細田の三名が故あって所払いになり、当地に隠棲したのが村の始まりで、続いて川越の方から鈴木・亀山・寺沢の家が移って来た。更に小沢という家が加わり七軒百姓をなり、それがやがて二五軒に増え、鈴木家で祀っていた氷川様を村の氏神とした。鈴木家はお頭と呼ばれ、名主を務めた家でもある」という。また、神社の記録に「志木町字城山村社氷川神社記録写 元禄年間針ヶ谷村川越領となり館村氷川神社を分祀し当社を創立す」とある。右いずれも創建を江戸期としているが一間社流造りの本殿内には、「昔のお宮」と呼ぶ石祠があり、別当寺の歴史の古さを考えると、時代は上がるかとも思われる。『風土記稿』に「氷川社 村の鎮守なり、西光院の持ち」とあり、別当西光院は真言宗で、正和二年銘の石仏がある古刹である。
明治五年に村社となり、同四〇年には“原の稲荷様”と呼ばれていた中通字針ヶ谷鎮座の稲荷神社を境内に合祀する。同社はかつて平林寺持ちであったという。ほかに鈴木貞則家前の八幡神社、字神明の神明社、字大六天山にあった大六天社を境内に合祀した。古い末社に八坂社と庚申社がある。(「埼玉の神社」より)

新編武蔵風土記稿による針ケ谷氷川神社の由緒

(針ケ谷村)
氷川社
村の鎮守なり、西光院の持ち
稲荷社
村民の持、 (新編武蔵風土記稿より)


針ケ谷氷川神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)