等覚院。東松山市古凍にある天台宗寺院

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慈雲山等覚院。東覺院と慈雲寺が合寺、国宝阿弥陀如来像

等覚院の概要

天台宗寺院の等覚院は、慈雲山来迎寺と号します。等覚院は、暦応五年(1342)に誓信上人が開基、享保6年に玄海上人が中興、西岸山東覺院来迎寺と号していたといいます。当地にあった慈雲寺と昭和44年に合併、慈雲山等覚院来迎寺と改めたといいます。当院の阿弥陀如来像は、建長5年(1253)に修理された記録が残されており、昭和3年に国宝に指定された貴重な仏像です。

等覚院
等覚院の概要
山号 慈雲山
院号 等覚院
寺号 来迎寺
本尊 觀音菩薩像
住所 東松山市古凍530
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 -



等覚院の縁起

等覚院は、暦応五年(1342)に誓信上人が開基、享保6年に玄海上人が中興、西岸山東覺院来迎寺と号していたといいます。当地にあった慈雲寺と昭和44年に合併、慈雲山等覚院来迎寺と改めたといいます。

新編武蔵風土記稿による等覚院の縁起

(古氷村)
慈雲寺
天台宗、下青鳥村浄光寺末、弘誓山惠日院と號す、本尊薬師を安ず、
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東覺院
村内慈雲寺の末なり、西岸山来迎寺と號す、觀音を本尊とす、
阿彌陀堂(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による等覚院の縁起

阿弥陀如来堂建立記念碑
西岸山、等覚院、来迎寺は天台宗の古刹にして浄光寺の末寺なり、浄光寺文書に曰く「暦応五寅年正月誓信上人の開基にして享保六丑年二月玄海上人当寺を中興す」と。
昭和四十四年六月、当所慈雲寺を併せて慈雲山、等覚院、来迎寺と称するに至る。
当山に一古仏あり、木彫阿弥陀如来座像にして久しく当寺におわして仏姿端麗なること極りなし阿弥陀如来の胎内に、「建長五年丑卯月奉修理」の銘あり。昭和三年八月十七日、文部省より国宝の指定あり。更には昭和二十五年八月二十九日、文化財保護委員会より重要文化財の指定を受け、広く国家の宝物として指定せられたり。
嘉永六丑年正月の等覚院什物帳に、弥陀三尊春日作にして阿弥陀堂に奉祀し、毎年十五日を縁日として遠近の信仰を集めたりという。
文久二戊年正月十八日、古凍に大火あり、当寺阿弥陀堂も烏有に帰し、翌三年再建されるも明治年間の火災に堂宇焼失す。
再度の火難に阿弥陀如来の脇侍たる観音勢至の二菩薩像を失いたる、真に惜しむべし。
昭和五十年四月、等覚院担信徒、阿弥陀堂の建立を発願し、文化庁、埼玉県、東松山市の助成金に併せ遍く有縁大衆の浄財を勧進し同十月着工、昭和五十一年三月、耐震、不燃の御堂を完工せり。(「阿弥陀如来堂建立記念碑」より)


等覚院所蔵の文化財

  • 等覚院阿弥陀如来座像(国指定重要文化財)

等覚院阿弥陀如来座像

等覚院は、かつては西岸山等覚院来迎寺と呼ばれましたが、近くの慈雲寺を合併したためか、慈雲山等覚院来迎寺と変っています。
阿弥陀如来座像は、高さ八十八cmの等身大の像で、上品下性の印を結び、蓮華座の上に座した、結跏趺座の姿で、寄木造りの立派な作風のものです。
昭和二十六年修理の時、建長五年(一二五三)に仏師「定性」によって修理された旨の墨書銘がみつかりました。
奉修理阿弥陀如来像一体 大仏師定性
塗師□□ 建長五年癸丑卯月世(東松山市教育委員会掲示より)

等覚院の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」