金剛寺。朝霞市根岸台にある真言宗智山派寺院

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不動山金剛寺。朝霞市根岸台にある真言宗智山派寺院

金剛寺の概要

真言宗智山派寺院の金剛寺は、不動山光照院と号します。金剛寺の創建年代は不詳ながら、堯諄法印が当地根岸に創建したといい、堯諄法印は慶長3年(1599)に清瀬円通寺へ転じているということから、文禄年間から慶長年間の間(1592-1598)に創建したのではないかといいます。

金剛寺
金剛寺の概要
山号 不動山
院号 光照院
寺号 金剛寺
本尊 不動明王像
住所 朝霞市根岸台3-4-3
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 不動尊火まつり11月、境外阿弥陀堂



金剛寺の縁起

金剛寺の創建年代は不詳ながら、即身仏となった高野勘兵衛(天正元年1582年卒)が開基となり創建、堯諄法印が開山したといいます。

新編武蔵風土記稿による金剛寺の縁起

(根岸村)金剛寺
除地2段3畝15歩。光照山(一に自房山と云)と云。新義真言宗、豊島郡石神井村三寶寺の末なり。東の方に大門あり。本堂は7間半に5間半。門の正面に当る。此地は堯諄法印の開山なり。年代詳かならざれども、慶長3年に此法印多摩郡清戸下宿の円通寺に転せしことあれば、文禄年中若くは慶長の造立なるべし。本尊不動尊(立像2尺2寸)行基菩薩の作なるよし。本堂に安ず。
阿弥陀堂。3間四方なる堂。金剛寺の前にあり。則金剛寺の持なり。(新編武蔵風土記稿より)

「朝霞市史」による金剛寺の縁起

根岸台地区・金剛寺
自坊山光照院金剛寺といい、宗旨は真言宗智山派で、本尊は行基の作と伝える木立像の不動明王ならびに両大師である。近世においては石神井三寶寺の末寺であった。山号については、不動山と称する場合もあったようだが『風土記稿』では光照山とも自坊山ともいうとの記載もある。さらに同書では開山を堯諄坊法印によると記し、創建年については文禄・慶長年間(一五九二~一六一五)頃と推定している。
他方、寺伝によれば開基は高野勘兵衛で、もとは武士であったが、一念発起して名を先本と改め修験者となり、多くの人々を助け、のち精進して生身のまま穴に入り即身仏となった人物とされている。そのときは旧家臣も後を追って殉死したほど、諸人から尊敬を受けていたともいう。今、境内墓地に高野イッケの旧墓地から移した「先本流山釖士・天正元酉年正月十四日・高野勘兵衛」とある石塔がその墓である。また、特にこのことについては、伝説も付随していた。現在の東朝霞公民館近くに、二十数年ほど前まで流山塚という築山があり、その塚こそが即身成仏し、かつ多くの家臣が命を絶ったところであるとされ、そこには大きな杉の木があったが、切ると真っ赤な血が出ると伝えていた。ちなみに、その杉のことは血の出る杉といい、高野イッケは根岸の草分けで、かの勘兵衛が先祖のおおもとであるといわれている。
さて、その後は江戸中期まで一七世を数えたが、大正十年を迎えるまでの七、八〇年間は無住となっていた。この間は台雲寺の兼務によって存続していたが、先々代台雲寺住職が縁組を立て、金剛寺の独立再興をはかったのである。兼務時代は、旧本堂や庫裡は寺子屋に利用したり、明治三九年までは小学校として活用するなどしていた。なお、その他、室町時代の作とする一木造立像の社か誕生仏なども安置している。(「朝霞市史」より)


金剛寺の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「朝霞市史」