産財氷川神社。志木市中宗岡の神社

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産財氷川神社。中ノ氷川神社

産財氷川神社の概要

産財氷川神社は、志木市中宗岡にある氷川神社で、中ノ氷川神社とも通称します。産財氷川神社は、永享年間(1429-1441)に武蔵国一の宮氷川神社を分祀して創建したといい、江戸期には宗岡村の鎮守社であったといいます。明治5年村社に列格していました。

産財氷川神社
産財氷川神社の概要
社号 氷川神社
祭神 須佐之男命
相殿 奇稲田姫命、大己貴命
境内社 御嶽社、八坂社など
祭日 -
住所 志木市中宗岡2-29-12
備考 -



産財氷川神社の由緒

産財氷川神社は、永享年間(1429-1441)に武蔵国一の宮氷川神社を分祀して創建したといい、江戸期には宗岡村の鎮守社であったといいます。明治5年村社に列格していました。

新編武蔵風土記稿による産財氷川神社の由緒

(宗岡村)氷川社
是も(下ノ氷川神社と同じく)村内の鎮守なり、実蔵院の持なり(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による産財氷川神社の由緒

宗岡村は古くは鎌倉街道と奥州を結ぶ道筋に当たっていたとされ、奥州へ至る道の一里塚(榎と道標)が中宗岡に現存する。当社はこの中宗岡の地の荒川沿いに堤防を背にして祀られており、水害に悩まされた往時の人々から川を鎮める神として崇敬が寄せられたものと思われる。
 宗岡村は上・中・下に分かれ、上から下に向かって村が開けていったと伝えられる。上・中・下ではいずれも氷川神社が祀られており、承暦二年(一〇七八)にまず上の氷川神社が創建され、後の観応二年(一三五一)に下に氷川神社が分霊されたが、この時にその証として一対の茶白石に年号を刻み、上石は下の氷川神社に、下石は上の氷川神社に神体として埋納したとの伝承が語られている。
中宗岡に鎮まる当社は村の開発が進展する中で、既に村内の上下で祀られていた氷川神社に倣って勧請されたものと推測され、『明細帳』によれば、古老の口碑に永享年間(一四二九〜四一)に高鼻村(現大宮市高鼻)の氷川神社から分霊して産土神としたとある。また、『風土記稿』には「氷川社 是も村内の鎮守なり、実蔵院の持なり」とある。別当実蔵院は元和三年(一六一七)に行者澄平が草庵を創立したのを開基とする。
明治初年の神仏分離を経て、明治五年に村社に列した。(「埼玉の神社」より)

志木市教育委員会掲示による産財氷川神社の由緒

産財氷川神社
産財氷川神社(中ノ氷川神社)は永享年間(一四二九〜四一)に武蔵国一の宮氷川神社(大宮市)を分祀したものと言われています。
拝殿の後の覆屋内にある本殿は、造営年代は定かではありませんが、明治二年に着工し、同十四年に完成したものと言われており、本殿石積み基壇部に「明治十二年十一月立建之 當村石工大嶋信正」との銘があるので、このころ建立されたものと思われます。
本殿は一間社流造りで、建築資材はケヤキが使用されています。この本殿の掾を支える腰組は禅宗建築の手法に見られ、浜掾は、賑やか構成となっているなど、建築に工夫が施され、他にあまり類例がなく、また、鯉の滝のぼりや登り龍・下り龍等の彫刻も随所に施されており、意匠的にも優れた貴重な建造物であります。
この本殿は、彫刻や建築手法などすばらしく、質の高い建造物であるとして、平成八年三月に、志木市指定文化財となっています。(志木市教育委員会掲示より)


産財氷川神社所蔵の文化財

  • 産財氷川神社本殿(志木市指定文化財)

産財氷川神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)