子の神氷川神社。膝折村鎮守
子の神氷川神社の概要
子の神氷川神社は、朝霞市膝折にある氷川神社です。子の神氷川神社の創建年代や由緒については不詳ですが、古くから山の神として祀られていた子の神が坐す山上に、中世、一の宮として名高い氷川神社が村の鎮守として勧請されたのではないかといいます。明治時代には村社に列格、明治43年に宇宿の愛宕社・字上ノ原の稲荷社・字下ノ原の稲荷社を合祀、さらに上の原金毘羅大権現を合祀しています。
社号 | 氷川神社 |
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祭神 | 素盞雄命 |
相殿 | - |
境内社 | 愛宕、金毘羅、田野内、稲荷、水神神社 |
祭日 | - |
住所 | 朝霞市膝折2-20-44 |
備考 | - |
子の神氷川神社の由緒
子の神氷川神社の創建年代や由緒については不詳ですが、古くから山の神として祀られていた子の神が坐す山上に、中世、一の宮として名高い氷川神社が村の鎮守として勧請されたのではないかといいます。明治時代には村社に列格、明治43年に宇宿の愛宕社・字上ノ原の稲荷社・字下ノ原の稲荷社を合祀、さらに上の原金毘羅大権現を合祀しています。
新編武蔵風土記稿による子の神氷川神社の由緒
(膝折宿)氷川神社
年貢地三畝、村の南小名子ノ神と云所の山上にあり、本社は宮作にて、上屋九尺に二間あり、勧請の年代詳ならず、村内持明院の持。
末社。天神社、稲荷社、辨天社。(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による子の神氷川神社の由緒
『風土記稿』によれば、膝折の地名は小栗小次郎助重が賊に追われて馬で当地まで逃れて来たところ鬼鹿毛というその馬が膝を折って死んだことに由来する。また昔高麗の城の落人五人が原野であった当地を開墾したという。一方『埼玉県地名誌』では「鳥取県三朝町の中津地方で二月初午をスネオリといって、この日は山の神の木数え日で山に入れば脛を折る」との伝説に基づき、地名の由来を推測している。
当地は既に室町期から宿駅として栄え、『廻国雑記』を著した聖護院道興は文明十八年(一四八六)に膝折の里に入り、ここで休憩した際に、この地に市が立てられて商人が集まっていたと記している。武蔵野台地の水の乏しい中、ここは低地にあり水に恵まれたことが、早くから宿場を形成する要因となったものであろう。
当社はこの膝折の里の南方の「子の神」と呼ばれる山上に鎮まる。創建についての伝承は語られていないが、古くから山の神として祀られていた子の神が坐す山上に、中世、一の宮として名高い氷川神社が村の鎮守として勧請されたことが推測される。
別当は真言宗持明院で、当社の北方八〇〇メートルほどの所(膝折一丁目・塩野製作所の辺り)がその跡地で、明治八年に廃寺となった。
『明細帳』によると、明治四十三年に宇宿の愛宕社・字上ノ原の稲荷社・字下ノ原の稲荷社の無格社三社を村社である当社に合祀した。(境内掲示より)
子の神氷川神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」