能満山密蔵院。薬師堂の日光月光菩薩と眷属十二神将像
密蔵院の概要
真言宗智山派寺院の密蔵院は、能満山求聞寺と号します。密蔵院は、盛伝法印(元禄4年1691年寂)が開山したといいます。当寺薬師堂に安置されている薬師如来の脇侍日光月光菩薩と薬師如来の眷属十二神将像は市文化財に指定されています。
山号 | 能満山 |
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院号 | 密蔵院 |
寺号 | 求聞寺 |
本尊 | 虚空蔵地蔵 |
住所 | 上尾市平塚1708 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
密蔵院の縁起
密蔵院は、盛伝法印(元禄4年1691年寂)が開山したといいます。
新編武蔵風土記稿による密蔵院の縁起
(中平塚村)密蔵院
新義眞言宗、倉田村明星院末、能満山求聞寺と號す、本尊虚空蔵を安ず。
天神社、薬師堂。(新編武蔵風土記稿より)
「上尾の神社・寺院」による密蔵院の縁起
「武蔵国郡村誌」によれば、開山は盛伝法印で元禄4年(1691)3月15日寂。(「上尾の神社・寺院」より)
密蔵院所蔵の文化財
- 日光・月光菩薩立像(市指定文化財)
- 十二神将立像(市指定文化財)
日光・月光菩薩立像
真言宗密蔵院の薬師堂内の厨子には、十二年に二度(寅年と未年)開扉される薬師如来が安置されている。その両脇には、薬師如来の脇侍である、日光・月光菩薩立像が立っている。
日光・月光菩薩とも決まった形は無く、日輪・月輪を宝冠に付けるか、あるいは手に持つ以外は、薬師如来の脇侍であること以外、日光・月光菩薩の見分けがつかない。
密蔵院の日光・月光菩薩立像は、向かって右側が日光菩薩・左側が月光菩薩といわれ、それぞれ日・月を区別する持物を持っている。日光菩薩は、像高が106.7cmの一木造であり、月光菩薩は、像高が102.5cmの寄木造である。両像とも、その構造や作風から平安時代後期頃の作と考えられ、市内最古の仏像である。しかし、両像の構造・作風には、若干の違いが見られ、日光菩薩像の方に、より古様な特徴が認められる。
記録によると奥州磐城に7万石を領していた平藩主内藤家が、元文三(1738)年に起こった一揆が原因で転封となり、延享四(1747)年に内藤政樹が日向国延岡へ移る際、持仏である日光・月光菩薩と十二神将を夢のお告げにより密蔵院に納めたと伝えられている。(上尾市教育委員会掲示より)
十二神将立像
薬師如来の脇侍、日光・月光菩薩立像のさらに外側には、薬師如来の眷属である十二神将立像が建ち並んでいる。
十二神将は、いずれも天衣甲冑を着けた武将の姿で表され、各々7千の眷属を率いて人々を守ると言われている。また、昼夜十二時の護法神として、平安時代頃から頭上に十二支を付けるようになった。
密蔵院の十二神将立像は、共に像高が70cm程で、鮮やかな彩色が施され、頭上には十二支を表す動物が付けられている。台座裏などの銘記によると、延宝八(1680)年から貞享元(1684)年に数人の仏師が分担して製作したと推測される。これらの仏師の中には、玄慶、院達、永悦、宗而、左近などの名が見られ、いずれも京仏師とされている。この十二神将立像もまた、日光・月光菩薩立像と共に、内藤家から寄進されたと伝えられている。(上尾市教育委員会掲示より)
密蔵院の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「上尾の神社・寺院」(上尾市教育委員会)