天神氷川八幡合社。上尾市藤波の神社

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天神氷川八幡合社。上尾市藤波の神社

天神氷川八幡合社の概要

天神氷川八幡合社は、上尾市藤波にある神社です。天神氷川八幡合社の創建年代等は不詳ながら、かつて密厳院が真言宗寺院だった頃に大宮氷川神社鶴岡八幡宮を勧請して創建、その後密厳院が室町時代に禅宗として再興された後に禅宗で崇敬されていた天神社を併せ祀ったのではないかと推定されています。江戸期には藤浪村の鎮守として祀られ、明治6年には村社に列格していました。

天神氷川八幡合社
天神氷川八幡合社の概要
社号 天神氷川八幡合社
祭神 素戔嗚尊、誉田別尊、菅原道真公
相殿 -
境内社 浅間社、三峯社、稲荷社
祭日 -
住所 上尾市藤波1-282-1
備考 -



天神氷川八幡合社の由緒

天神氷川八幡合社の創建年代等は不詳ながら、かつて密厳院が真言宗寺院だった頃に大宮氷川神社鶴岡八幡宮を勧請して創建、その後密厳院が室町時代に禅宗として再興された後に禅宗で崇敬されていた天神社を併せ祀ったのではないかと推定されています。江戸期には藤浪村の鎮守として祀られ、明治6年には村社に列格していました。

新編武蔵風土記稿による天神氷川八幡合社の由緒

(藤浪村)
氷川天神八幡合社
村の鎮守なり、密嚴院持。
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淺間社
持前に同じ(新編武蔵風土記稿より)

「上尾の神社・寺院」による天神氷川八幡合社の由緒

「新編武蔵風土記稿」に、本村往時藤波郷石戸領に属し、領家、古泉、中分と合して藤波村と称した・・・検地は元和6年(1620)、寛文7年(1667)、貞享4年(1687)地頭より糺した。と誌され、社名も記されているので、当時すでに鎮座していたと思われる。(「上尾の神社・寺院」より)

「埼玉の神社」による天神氷川八幡合社の由緒

天神氷川八幡合社<上尾市藤波一-二八二-一(藤波字天神耕地)>
当社は、藤波のほぼ中央の南東に低地が広がる台地上に鎮座している。昭和三十五年ごろまでは、その裾から清水が湧きだして「天神様の池」と呼ばれる三〇坪ほどの池を形成していたという。
創建については不詳であるが『風土記稿』に「氷川天神八幡合社 村の鎮守なり、密厳院持」とある。別当の密厳院は相州鎌倉(神奈川県鎌倉市)の臨済宗円覚寺末で、瑞露山藤波寺と号する。元々は真言宗の寺であったが衰微したため、明応年間(一四九二-一五〇一)に叔悦禅師が、甥である岩槻城主太田資家の招きに応じ、住職となり、禅宗の一派である臨済宗に改宗して再興した。禅宗では、室町期から天神を学問の祖として崇敬していた。このようなことから、まず真言宗密厳院が、見沼を見下ろす高台に鎮座する一宮氷川神社の分霊を、地形が類似した当地に勧請した後に鎌倉の地から鶴岡八幡宮の分霊を併せ祀り、更に改宗後の密厳院が、天神社を併せ祀ったものと思われる。当社を「天神様」と称するのは、密厳院が天神社の神徳を強調した結果であろう。
当社は明治六年四月村社に列した。同十一年十二月三十一日に火災となり、社殿を消失したが、氏子の寄付により、同十三年九月二十五日に再興した。その後、本殿が雨ざらしになっているのを憂えた氏子一同は、大正六年に本殿の覆屋を新たに建設した。(「埼玉の神社」より)


天神氷川八幡合社所蔵の文化財

  • 藤波のささら獅子舞(上尾市指定無形民俗文化財)
  • 藤波の餅つき踊り(上尾市指定無形民俗文化財)

藤波のささら獅子舞

「藤波のささら獅子舞」は1人が1頭の獅子に扮し3頭の獅子が舞う、三匹獅子舞と呼ばれる風流系民俗芸能である。伝承では、藤波の領主であった牧野氏が寛文七(1667)年に検知した際、村人に獅子舞を奨励したのが始まりといわれている。獅子舞は、毎年、藤波地区の鎮守である天神社の例祭の日である九月二五日に奉納されるものであったが、現在は一〇月の第1日曜日に奉納している。
舞手の構成は、雌獅子と中獅子、雄獅子の3人と、舞の先導役の宰領(猿岩)の、4人1組である。舞は笛に合わせ進行し、獅子は舞いながら腰に着けた太鼓を叩き、花笠をかぶった岡崎と呼ばれる役が「ささら」という楽器を演奏する。ささら獅子舞という名称は、ここからきている。
演目は、「十二切」と呼ばれる一曲形式が基本で、約2時間にもおよぶものだが、同じ動作の繰り返しを省略するなど、現在は十二切の上演は1時間半程度となっている。舞の中盤には歌が入り、後半は「雌獅子隠し」となる。雌獅子隠しは、岡崎の間に入って隠れた雌獅子を、中獅子と雄獅子が探して奪い合うという内容になっている。このほか、十二切の短縮版の八切と四切がある。現在は、祭りの当日の午後に十二切を2回、夜間に八切を1回奉納している。(上尾市教育委員会掲示より)

藤波の餅つき踊り

餅つき踊りは接待餅ともいわれ、本来は祭りや行事で上演することが目的ではなく、主として「おびとき」といわれる現在の七五三のお祝いに呼ばれて披露する民俗芸能であった。「藤波の餅つき踊り」は、江戸時代後期に名主の篠田金右衞門が若者に賭博をやめさせるために習わしたのが始まりと伝わる。
藤波地区の餅つき踊りは、4人1組でつくのが基本である。演目は「餅つき」と「曲づき」に大別される。「餅つき」は比較的軽い杵を使い、実際に餅をつきながら踊るもので、演目は立ちボーウチ、座りボーウチ、餅殺し、一本抜き、七五三、早づき、八人づきである。なお、立ちボーウチと座りボーウチは、この地域の麦作の作業歌である麦打ち歌であるボーウチ歌に合わせてつく。「餅つき」の基本は餅殺しで、一本抜き、七五三、早づき、八人づきはその変形となる。一方「曲づき」は「餅つき」が終わった後に、さらに細く軽い杵を使って、空の臼の周りで演じるもので、「獅子追い」「寝ず」などの演目がある。高度で複雑な動きをする踊りである。
現在、七五三のお祝いで上演する機会はなく、藤波地区の鎮守である天神社の元旦祭や例祭の前夜祭などで上演されるほか、各種の催し物に呼ばれて上演している。(上尾市教育委員会掲示より)

天神氷川八幡合社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「上尾の神社・寺院」(上尾市教育委員会)
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)