高徳寺。中野区上高田にある真宗大谷派寺院、新井白石の墓所

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新居山高徳寺。新井白石の墓所

高徳寺の概要

真宗大谷派寺院の高徳寺は、新居山法喜院と号します。高徳寺は、近江佐々木氏一族出身の了智法印(安貞2年1228年歿)が信州栗原に建立した正行寺を源とします。その後、正行寺を上野国新田郡新井村(群馬県太田市)へ移転、荒居山法喜院高徳寺したといいます。元亀年間(1570-1573)に戦乱を避けて十二世了応法師が、下総の国相馬郡小目村へ高徳寺を移転、十四世宗信法師が高徳寺を中興したものの、戦乱に遭い寺院を焼失、江戸下谷御小人町へ移転、その後十七世了也権律師の代に八丁堀への移転を経て、浅草報恩寺境内へ移転しました。上野国新田郡新井村(群馬県太田市)の土豪出身と伝えられる新井白石は、十代・三十代の2度に亘り高徳寺に寄食していたといい、新井白石の墓所となっています。

高徳寺
高徳寺の概要
山号 新居山
院号 法喜院
寺号 高徳寺
住所 中野区上高田1-2-9
宗派 真宗大谷派
葬儀・墓地 新井白石記念ホール
備考 -



高徳寺の縁起

高徳寺は、近江佐々木氏一族出身の了智法印(安貞2年1228年歿)が信州栗原に建立した正行寺を源とします。その後、正行寺を上野国新田郡新井村(群馬県太田市)へ移転、荒居山法喜院高徳寺したといいます。元亀年間(1570-1573)に戦乱を避けて十二世了応法師が、下総の国相馬郡小目村へ高徳寺を移転、十四世宗信法師が高徳寺を中興したものの、戦乱に遭い寺院を焼失、江戸下谷御小人町へ移転、その後十七世了也権律師の代に八丁堀への移転を経て、浅草報恩寺境内へ移転しました。

御府内寺社備考による高徳寺の縁起

新居山法喜院高徳寺 地所百三十三坪
当寺起立之儀、最初高野山に居て真言秘密の法を修行し、承永元年親鸞聖人越後国国府江下向し玉ふ御跡をしたひ、国府に行て法意を聴聞して御弟子と成る。法名を了智と給ふ。其後信州栗原に趣て一宇を建立し正行寺と号す。亦年月を経て上州荒居に移て梵宇を建立して荒居山法喜院高徳寺と号す。一名明見山ともいふ。
開祖了智法印。本国近江、俗性佐々木家之一族也。安貞二年十二月十日寂。
十二世了応法師。元亀年間甲州兵乱の為に下総の国相馬郡小目村に寺跡を移す。
中興十四世宗信法師。慶長年中報恩寺の触下に属す。その頃田谷修理太夫の為に寺跡を焼失す。是に依て江戸下谷御小人町江寺跡を再建す。
十七世了也権律師。慶安年中江戸八丁堀に転住す。其後明暦三年の火災によりて浅草報恩寺境内へ寺跡を移す。
廿二世了祐権律師。文化九申年十一月当地所江報恩寺移転の節、同境内へ転住いたし候。
本尊阿弥陀如来、木立像丈壱尺八寸、頂仏師作。
阿弥陀如来画像親鸞聖人真筆
観音、丈壱寸三分、護摩の灰を以作る。右者弘法大師の作にして、当寺開山了知法印高野山に在りし時常にこれを安置す。依て伝来なす。
什物。
一、宣如上人御筆消息一軸
一、墨絵達磨一軸 雪舟之筆、賛有之。
一、極彩色礼相女一軸 古永徳筆、賛有之。
中興開基檀家新井筑後守。儒名白石先生。当主新井靭負。
新井家先祖勘解由ト云。慶長十四年八月廿七日卒ス。法名荘厳院殿釈浄意大居士。同室慶長九年五月三日卒ス。法名貞順院殿釈妙意大姉。
新井筑後守墓碑面左之通。右脇二、筑後守従五位諱君美年六十九。享保十年五月十九日卒。正面二、新井源公之墓
法名慈清院殿釈浄覚大居士但石塔ニハ法名無之。
同内室元文四年己未七月十八日卒。源公夫人之墓ト在之。
法名清涼院殿釈妙慶信尼但右同断。
中興開基本願寺御門跡御内石井三太夫正忠。慶安五年琢如上大江戸御下向之節御共二而下り浅草御房 二勤仕。由緒有之二付依命当寺檀家二候。享保五年三月二日卒。法名釈宗山。夫ヨリ当代迄代々三太 夫ト号ス。
当寺末寺。
高念寺。元禄年中無住二而廃寺二相成、本尊当寺二安置ス。但度々類焼移転等二而旧記古書物等不詳 候。
本尊阿弥陀如来、木立像丈壱尺四寸。恵心僧都作。(御府内寺社備考報恩寺項より)


高徳寺所蔵の文化財

高徳寺には、延宝3年(1675)から延宝7年(1678)までと、元禄4年(1691)から元禄6年(1693)までとの2度に亘り当寺に寄宿した新井白石(明暦3年1657-享保10年1725年)の墓があり、東京都指定文化財となっています。

  • 新井白石墓(東京都指定旧跡)

新井白石墓

江戸中期の朱子学者。名は君美、通称勘解由、白石は号。木下順庵に朱子学を学び、その推挙により甲府の徳川綱豊(のちの家宣)の儒臣となり、宝永6年(1709)家宣が将軍になると幕臣として、間部詮房とともに家宣を補佐。
正徳の冶を開き、教学と政治の一致につとめた。
武家諸法度改訂、貨幣改鋳、船舶互市新令の施行、儀式典礼の整備などはそのおもな事蹟である。享保元年(1716)引退。学者として特にすぐれた合理性と実証を重んじ、朱子学的思考と実践の結合した合理主義者であり、日本古代史に合理的解釈を試み、外国事情にも意を用いた。主著「藩幹譜」「読史余論」「西洋紀聞」「折たく柴の記」など。(東京都教育委員会掲示より)


高徳寺の周辺図