宝福寺|中野区南台にある真言宗豊山派寺院

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如意山宝福寺|江戸三十三観音霊場

宝福寺の概要

真言宗豊山派寺院の宝福寺は、如意山と号します。宝福寺の創建年代は不詳ですが、江戸三十三観音霊場17番です。

宝福寺
宝福寺の概要
山号 如意山
院号 -
寺号 宝福寺
住所 中野区南台3-43-2
本尊 -
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 江戸三十三観音霊場17番



宝福寺の縁起

宝福寺の創建年代は不詳ですが、江戸三十三観音ガイドによると、「聖徳太子がが諸国を巡遊された時、紫雲たなびくこの地を霊地として堂を建立し、如意輪観音像を奉安し、国家安穏をお祈りされ、その後聖武天皇の時代に信行大挿図が上宮聖徳太子孝養の像を刻んで祀ったことからであると伝えられています」とあり、古くから当地にあったことを示唆しています。

新編武蔵風土記稿による宝福寺の縁起

宝福寺
除地、千八坪、村の中程にあり、如意山と號す、新義真言宗にて中野村宝仙寺の末、客殿六間に四間南向、本尊聖徳太子の立像長二尺八寸なるあり、開山開基詳ならず。
観音堂。本堂の左の方にあり、三間四方如意輪の坐像長一尺五寸なるを安ず。(新編武蔵風土記稿より)


宝福寺所蔵の文化財

  • 筆塚碑

筆塚碑

この「筆塚」の字は、戸村直衛という人が書いたもので、明治の初めに建てられたと考えられています。
戸村氏は、明治三年、雑色村に「戸村塾」を開いた人で、中野区最初の公立校「桃園小学校」の教師も勤めました。身分・経歴は明らかではありませんが、家塾開業願や小学校設立伺書などによれば、若いころに幕府の関係者から、数学・書道・洋学を学んだ知識人であったことがうかがえます。
明治五年に学制が発布されるまで、庶民教育は江戸時代から民間の塾や寺子屋で行われていました。明治初め、中野にも戸村塾など数カ所の私塾があったといいます。明治四年当時、戸村塾の生徒は二十五名で、教場は宝福寺や村内の民家をあて、学制発布後も存続し、私立戸村小学校から桃園小学校雑色分校へと引き継がれました。
この筆塚は、師弟の使用した毛筆を納めて供養し、学業上達を願ったものと考えられます。これは、中野の初等教育を物語るゆかしい記念碑です。(中野区教育委員会掲示より)

宝福寺の周辺図