諏訪大神社。横須賀緑が丘の神社

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

諏訪大神社。横須賀城主三浦貞宗が勧請、旧県社

諏訪大神社の概要

諏訪大神社は、横須賀緑が丘にある神社です。諏訪大神社は、康暦2年(1380)に横須賀城主三浦貞宗が、横須賀の総鎮守として城の入口であったこの古谷山に勧請したといいます。三浦氏滅亡後、横須賀村の鎮守社として祀られ、明治6年村社に列格、昭和3年郷社に昇格、昭和17年県社に昇格していたといいます。

諏訪大神社
諏訪大神社の概要
社号 諏訪大神社
祭神 建御名方命、事代主命
相殿 倉稲魂命、誉田別命、臼日命、大己貴命、賀夜奈留美命
境内社 伊勢両皇大神宮、大鳥神社、天神社、稲荷神社、大山祇神社、疱瘡神社
祭日 5月26日
住所 横須賀緑が丘34
備考 旧郷社



諏訪大神社の由緒

諏訪大神社は、康暦2年(1380)に横須賀城主三浦貞宗が、横須賀の総鎮守として城の入口であったこの古谷山に勧請したといいます。三浦氏滅亡後、横須賀村の鎮守社として祀られ、明治6年村社に列格、昭和3年郷社に昇格、昭和17年県社に昇格していたといいます。

神奈川県神社誌による諏訪大神社の由緒

康暦二年(一三八〇)三月二十三日、三浦貞宗が横須賀の鎮守神として長峯城の城口に当る当古谷山に信州上・下諏訪明神を勧請。三浦氏滅亡の後、祭祀権は地頭郡代を先達として次第に村の民衆の手に移った。慶長十一年(一六〇六)代官・長谷川三郎兵衛の発起で社殿・境内の大改修を行い(棟札文による)、以来代官の三浦郡中祈願所に指定された。(寛永八年、享和二年の版文による)
明治六年十二月村社に列し、同四十年四月三十日神饌幣帛料共進神社に指定された。楠ヶ浦が海軍用地として買上された事に伴い、八幡宮、十二天社、洲ノ御前社、子之神社を大正四年五月二十一日に合併し、昭和三年五月二十一日郷社に昇格、同十七年十月二日県社に昇格した。昭和二十二年五月十六日氏子会結成。昭和二十七年十月十日社会教育施設の氏子会館を町内で建築し奉納された。神社庁指定神社。(神奈川県神社誌より)

新編相模国風土記稿による諏訪大神社の由緒

(横須賀村)
諏訪社
村の鎮守とす、祭神建御名方命・事代主命、二座共に立像なり(各長一尺五寸)幣殿・拝殿等あり、康暦中の棟札と傳るものあり其圖左の如し、木理は杉の如く圓徑六寸是に據ば古社なる事知べし、又慶長十一年再造の棟札あり、(文に奉造替諏訪大明神云々、御代官長谷川三郎兵衛尉、慶長丙午二月二十七日、神主畠宮内少輔、)例祭七月二十六日神楽及角力等あり、
神主畑對馬。吉田家の配下なり、慶長の棟札に畑宮内少輔とあるは則祖先なり、寛文四年の神職免許状を蔵す、(新編相模国風土記稿より)

境内掲示による諏訪大神社の由緒

諏訪大神社
神社の伝承によると、康暦二年(一三八〇)にこの地の領主であった三浦貞宗(横須賀貞宗とも言う)が、信濃国(現在の長野県)諏訪から上下諏訪明神の霊を迎えて建てたとあります。また、徳川家康が、江戸に幕府を開いた三年後の慶長十一年(一六〇六)二月二十七日、代官長谷川三郎兵衛の発起で、社殿と境内地の大改修が行われたことも伝えられています。
祭神は、健御名方命と事代主命の二柱です。健御名方命は、武勇に勝れた神で、東国の守り神と言われています。事代主命は、えびすさまとも言われ、開運の神として広く信仰されています。
神社前の坂道は、横須賀村と言われた頃まで、浦賀に通じる主要道路でした。八幡山の名で親しまれている裏山は、古谷山がもとの名称です。明治初期、大津にあった佐倉藩の陣屋を解体して横須賀製鉄所(後の海軍工廠)に移したとき、陣屋内にあった八幡宮を横須賀製鉄所の鎮守として古谷山に祭ったところから八幡山と呼ばれるようになりました。
頂上近くから神社の裏手に接する区域は、諏訪公園になっています。明治三十三年、当時皇太子であった大正天皇の御成婚を祝って公園化事業がすすめられ、明治四十五年に完成しました。かつては、熊や猿などの小動物が飼われていたほか、小栗上野介忠順とレオンス・ヴェルニーの胸像や海軍工廠殉職職工の招魂塔が建っていました。
明治四十年の市制施工直後には、山頂に八幡山小学校が、聖ヨゼフ病院のところに諏訪小学校と市役所があり、まさに文教地区の観がありました。(境内掲示より)

境内掲示による諏訪大神社の由緒

康暦二年三月二十三日(一三八〇年足利義満の頃)横須賀城主三浦貞宗が横須賀の総鎮守として城の入口であったこの古谷山に長野県から上下両諏訪明神を勧請した。
その頃は城主と城下の村人によって祭られていたが、三浦氏が滅んだ後は、その祭祀権は地頭郡代を指導者とする村人達の手に移った。慶長八年徳川家康が将軍になり平和な世にあんったので早速慶長十一年二月二十七日代官の長谷川三郎兵衛の発起で社殿や境内の代改修をし(棟札による)以後永く代官の三浦郡中鎮守の遥拝祈願所となり(寛永八年、享和二年の版文による)村人も協力して神社を立派に維持し崇敬を続けた(歴代の棟札文による)明治六年十二月村社に列格、明治四十年四月三十日幣帛料供進指定社となり昭和三年五月二十一日郷社に昇格、昭和十七年十月二日神祇院一七神総第二号通牒を以て県社昇格の内許を受け指定工事中終戦となった。(境内掲示より)


諏訪大神社の周辺図